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平成29年7月10日(月)、島根県の廃村探索、 目的地の坊床(ぼうとこ)は、戦後開拓集落で、昭和24年度には25戸の暮らしがあった。 旧大東町久野から旧広瀬町に入って奥田原から枝道に入って西谷を経てR.432へとつなぎ、
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平成29年7月10日(月)、島根県の廃村探索、目的地の坊床(ぼうとこ)は、戦後開拓集落で、昭和24年度には25戸の暮らしがあった。旧大東町久野から旧広瀬町に入って奥田原から枝道に入って西谷を経てR.432へとつなぎ、布部ダムではダムカードをゲット。布部でR.4
https://blog.goo.ne.jp/sd104-ok10/e/b91f30235744a46dee693981f353664f
坊床 ぼうとこ7/16 晴れ 出発地:安来市広瀬町東比田 元坊床開拓地 約600mやっと念願の坊床訪問が実現。広瀬から国道432号線で南へ。布部ダム手前から県道274号線に入り、標識もない角力場 すもうば 集落に入る道を通り過ぎて、次の見逃しそうな橋を渡って舗装道を奥へ。僅かなすれ違い場所があるだけの狭い道(路肩の草は伸び放題)で、下ってきた軽のライトバンとすれ違う。坊床は今は人住まず、畑も無い筈なのに?..と思いつつ、4.4キロ奥の開拓地跡に着く。今はコンクリートとアスファルトの広い平地が残っているだけの姿になっている。ここは住居が幾つもあった場所。全く手入れされてないので、どちらを向いても背丈もあるササが生い茂り、かつての生活の跡は完全に消え去っている。自動車練習場のダートコースもササに覆われてしまい、近くの坊床山(735.0m)への道も分からなくなっていてヤブコギ状、登山は諦める。戦後、小学生のころ登ったという人も居られる山である。開拓村入口にあった子牛の育成場の建物も、草木が生い茂った斜面にかろうじて建物の残骸が見えるだけ。近くに雑草だらけの道が見えたが、山ひとつ越えた角力場へ行ける山道だろう。谷を隔てた向かいに坊床山が見える。せめて学校跡に立てられた記念碑だけでもと探したが見つからない。雲場 くもんば 集落への山越え道は林道となり、峠に「車も人も通行禁止」の看板とチェーン。道を横切るタヌキを2度見たが、栄養が足りないのか痩せている。今日は山奥ということで、クマとイノシシ用心に鈴を付けて歩いた。角力場の地名は、天狗が集まって相撲をとったと伝えられたことから。坊床の歴史(参考資料:広瀬町史・比田村史ほか)言い伝えによると、弘仁9年(818)に真言宗の一大道場として開かれという。山岳信仰の山であったが、火災や洪水の被害にあい荒廃。戦国期の尼子時代、坊床山は井尻の比婆山とともに見張り所となり、また、月山から撤退の際の立退所として尼子経久が堂宇を建て、当時12坊あったと伝えられている。しかし、比田は尼子、毛利両氏の争奪場となり、尼子氏滅亡の際に兵火により焼失した。その後に大師堂が再建されたり広瀬藩が馬乗馬場を設けたりしたが、次第に信仰も薄れ、衰えていった。昭和21年(1946)11月、元満州国開拓青少年義勇隊島根中隊の隊員から坊床太平開拓団を結成、先遺隊13名が開拓を始めた。29年には開拓団に於いて集団結婚式が行われる。31年には開拓道路が完成、初めて自動車が山上に上がった。37年には東比田小学校坊床分校が開校(児童数9名。46年閉校)した。しかし、豪雪地帯の高地で冬厳しく、土地も耕作に向かず、高度成長とともに団員は次々と山を下りていった。一時期、子牛の育成施設、自動車のダートコース(舗装されていないコースでタイムを競う自動車競技)の練習場として利用されたこともある。坊床はホノトコ(火の床)で鈩 たたら が営まれたことからの地名という説がある。