http://www.livingroom.ne.jp/t/yurikago.htm
◇92年まで群馬に同様の施設、閉鎖まで20~30人保護 (07.04.29) かけこみ寺に設けられた「天使の宿」。1986年ごろの写真。プレハブで中央にベッドが置かれている(左は木暮さん)=佐藤報恩財団提供 慈恵病院の 「ゆりかご」と似た性格を持つ施設が、1986年から5年半、前橋市内で運営されていた。 同市堀越町にある社会福祉法人「鐘の鳴る丘愛誠会」の創設者、品川博氏(99年死去)が、同会の敷地内に作った6畳ほどのプレハブ小屋で、名前は「天使の宿」。 数か月後、借金苦の親子を受け入れる近くの施設「かけこみ寺」の敷地内に移転した。品川氏は、かけこみ寺を運営する財団法人「佐藤報恩財団」にもかかわっていた。 関係者によると、消費者金融からの借金に悩んだ末の心中などから子どもを救う目的で天使の宿を設けたという。 天使の宿は中央にベッドがあり、赤ちゃんを預けたら親がプレハブ内の明かりをつける仕組み。両法人の職員が見回って発見する態勢だった。赤ちゃんを置いたことを、 電話で知らせてくる親もいたという。 赤ちゃんや保育園児など20~30人が預けられた。大半は後日、親が引き取ったが、児童相談所を経て乳児院などの公的施設に移されたり、財団役員を後見人に してかけこみ寺で養育されたりする例もあった。女優の木暮実千代さん(90年死去)も活動にかかわったという。 しかし、92年2月24日、天使の宿で、生後2~3週間の男の赤ちゃんが凍死しているのが見つかった。それまで1年以上、赤ちゃんが置かれるケースがなかった ため、職員の見回りが手薄になっていたという。この事故をきっかけに、群馬県の指導もあって天使の宿は閉鎖された。 跡地には現在、民家が並ぶ。関係者は「託した親には申し訳ない気持ちでいっぱい」と言葉少なに語る。 一方、慈恵病院の「ゆりかご」は、新生児が預けられたら自動的にブザーが鳴り、医師や助産師が駆け付ける態勢。保育器や、保育器が置かれる部屋の温度は36度 程度に保つことになっている。同病院の田尻由貴子看護部長(57)は「子どもを守りたいという品川さんの願いはわかる。病院では、昼夜を問わず安全策に最善を 尽くす」としている。 天使の宿廃止後に財団に入り、かけこみ寺の園長を務める成相八千代さん(79)は「ゆりかごは、安全面に十分配慮して取り組んでほしい」と話している。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-467.html
「赤ちゃんポスト」先駆け かけこみ寺閉鎖2007年に熊本県内の病院が始めた「赤ちゃんポスト」の先例ともいえる取り組みで知られた前橋市堀越町の保護施設「かけこみ寺」が今月末で閉鎖されることになった。1980年ころ開設されて以来、家庭の事情などで生き場がない子どもたちを長年にわたって受け入れてきたが、近年、公的機関の受け入れ態勢が整ってきたことから、99年から園長を務める成相八千代さん(80)らが閉鎖を決めた。成相さんによると、駆け込み寺を開いたのは、47年に開設され、NHKラジオ劇「鐘の丸丘」のモデルの一つになった児童養護施設「鐘の鳴る丘少年の家」創設者の品川博さん。70年~80年代に借金苦などによる親子心中が相次いだため、一人でも多くの子どもの命を守ろうと、少年の家の近くに開設。財団法人の運営で、役所を通さず、直接、行き場のない子どもたちを受け入れてきた。また、86年から92年に設置され、生後間もない乳児を身元を明かさずに預けられるプレハブ小屋「天使の宿」では、これまでに約10人を引き取った。成相さん自身は、都内で保育園に勤める傍ら、開設当初からかけこみ寺の運営に加わった。17歳で終戦を迎えた成相さんにとって、「命は国のもの」だったが、品川さんから「命はその人のもの」と教わり、品川さんが子どもの個性を尊重し、人を押しのけようとすることを厳しく注意する姿勢に触れ、その教えを守ってきた。ただ、思春期の子どもたちの扱いは一筋縄ではいかず、夜中にいなくなったりすることもしばしば。そのため睡眠時間が2時間という日も多かったというが、「子育てには家庭のぬくもりが大事」との強い信念のもと、子どもたちを育ててきた。しかし、子ども一人一人に目を配りたいと思ったのと、資金繰りも苦しかったため、90年12月に天使の宿に預けられた子どもを最後に受け入れを控え、昨年11月に最後の入所者を社会人として送り出したあとは、事実上、運営をやめていた。成相さんは「子どもたちと向き合っていると、毎日があっという間だった。逆に教えられることも多く、本当に幸せだった」と懐かしんだ。