板持集落 関連ブログ・参考リンク
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/37.Kagawa/Tadotsu_Itamochi.html
◆板持(いたもち)※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「仁尾」(昭和22.6)を使用したものである所在:多度津町高見(たかみ)地形図:讃岐粟島/仁尾形態:山中に家屋が集まる標高:約20~70m訪問:2020年1月 高見島北部の東斜面にある。 島内で伺った話によると、1戸1人(林(はやし)家)が最後まで住んでいたが、10数年ほど前に無住となったとのこと。 浦地区からおよそ1.5㎞、県道終点付近で登り口に到着。居住区内には階段および鋪装された徒歩道が通じている。現地では複数の宅地がまとまって見られたが、状態の良い家屋は見られない。1970年代の航空写真を見ると集落から北西に向かって緩い傾斜地に農地が広がっていたようだが、既に荒地や山林になっている。 なお集落の登り口の手前300mほどの道沿いには墓地があり(写真40)、これは当地のものであるよう。大倉姓・林姓・渡辺姓がそれぞれ複数(2世帯ほど)確認できる。 写真1 港の観光案内図より。「板持集落の跡」とある写真2 案内写真3 車道終点(登り口はここより手前)写真4 登り口の井戸写真5 集落への階段写真6 何かを祀った跡?写真7 道写真8 廃屋写真9 敷地入口写真10 写真9の平坦地写真11 写真9の石塔。「奉献 頼姫大明神/明治四十三年/旧七月吉良日」とある写真12 宅地の門写真13 写真12の屋敷跡写真14 写真12の前の水路写真15 屋敷跡写真16 道沿いの「板持自治会掲示板」(写真15の廃屋に取り付けてある)写真17 廃屋写真18 道と石仏写真19 貯水タンク?写真20 廃屋。最後の住民の家と思われる写真21 分かれ道。左が本道、右は農地へ写真22 写真21分岐の井戸写真23 道写真24 宅地の門写真25 井戸写真26 宅地の門写真27 写真26の廃屋写真28 廃屋写真29 廃屋写真30 宅地の門写真31 写真30の廃屋写真32 井戸写真33 廃屋写真34 小祠写真35 井戸?写真36 農地跡写真37 農地の穴写真38 農地跡写真39 浜からの風景。左は広島(ひろしま)(讃岐広島)、右遠方は本島(ほんじま)写真40 墓地
https://binmin.tea-nifty.com/blog/2014/03/post-7802.html
この立て札で分かるように瀬戸芸の作品、といっても板持集落という7年前に最後の住人が村を離れて廃村になった村がそのまま提示されています。作品として手を入れたことは生い茂る草木を刈り払ったこと。ここはぜひ訪ねたい場所でした。
http://takamijima.blogspot.com/2013/12/blog-post_6408.html
「板持廃村再生プロジェクト」高見島での作品展示は、住民の暮らす浦集落を舞台としている。しかし、この板持廃村再生プロジェクトだけは、浦集落から2キロほど離れた板持集落でのプロジェクトだ。人口減少の続く高見島で、十年前に、板持集落は人の住まない集落となった。人が去ってから十年経つと、集落はどのようになるのか?そのような興味から始まったプロジェクトである。生い茂る草木を刈り取って、板持集落に残る暮らしの痕跡をよみがえらせる。これが「板持廃村再生プロジェクト」だ。海岸脇の階段が、板持集落の入り口。うっそうと茂った草木のトンネルくぐり抜ける。
http://tabicoco.seesaa.net/article/379159195.html
板持廃村再生プロジェクト7年前に最後の住民が村を離れ、それ以来廃村となった板持地区。
http://tds.dreamlog.jp/archives/50861907.html
この集落跡がある高見島は、人口43人の超過疎の島。その中でも板持集落跡は、島唯一の港から歩いて20分くらいかかる場所にあります。僕は集落跡までの舗装路を「この道はどんな人たちのためのものだったんだろうか。生活道路のように見えるけど、もはや誰の帰り道にもなりえないんだよな」なんてことを思ったりしながら歩いていきました。道沿いには電線や電灯があったのですが、もう電気は通ってないかもしれない。たとえ道の途中が土砂崩れとかで塞がれても、誰も気づかないし復旧作業も行われないだろうな、などとですね。