http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1033.html
31日、南苑飛行場に移動しますが、12月26日、海軍(第一・第二聯合航空隊、九六陸攻63機)と合同での支那奥地進攻(第三次)のため運城飛行場へ移動、26・27・28日、蘭州を爆撃(百號作戰)します。 昭和15(1940)年1月8日、南苑 31日、9月1日、武昌飛行場に移動し重慶・大波口製鉄所を爆撃、7日、支那奥地進攻は終了し、戰隊は南方への起用が決定し、各務原陸軍飛行場に移動、九七重爆Ⅱ型に機種改編(40機)ののち、濱松陸軍飛行場に帰還します。 11月6日、第三飛行集團(菅原道大
https://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/kumamoto-closed-airport
この「旧熊本空港」、大戦中は陸軍の「熊本飛行場」、「健軍飛行場」でした。そしてこの飛行場のすぐ南側に三菱重工熊本航空機製作所があり、重爆撃機「飛龍」を生産していました。防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九
http://gazoo.com/my/sites/0001457380/mamehachi/Lists/Posts/Post.aspx?ID=406
まめ八が住んでいる家から1kmほど離れた場所に、まめ八が小学校の2年生のころまで熊本空港がありました。当時はこの空港の事を健軍飛行場と呼んでいた記憶があります。この健軍飛行場は、太平洋戦争が始まった昭和16年に三菱重工業熊本航空機製作所が建設された際に作られた
http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=552345
前回紹介した旧三菱重工熊本航空機製作所の北側には、付属の飛行場ともいえる陸軍の健軍飛行場があり、工場で生産された重爆撃「飛龍」の1号機もここから飛び立っています。終戦後は「旧熊本空港」となり、昭和46年に現在地である益城町に移転するまで民間の空港として使われて