愛宕下集落 概要・歴史

愛宕下集落は栃木県日光市にあった足尾銅山の鉱山住宅街。最大で800人以上の居住者があり、公衆浴場などもあった。

2010年までに全住居が解体され、防火壁だけが残っている。

「足尾銅山社宅 愛宕下 往時のようす」という説明板が設置され、以下の解説が記されている。

江戸時代の愛宕下は赤倉村字坂詰(さかつめ)という地名で農家が3戸あったが、明治20年(1887)に松木から起こった大山火事で焼失し、以後草っぱらとなっていた。その後足尾銅山の社宅地として開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人たちの飯場が建てられたが、工事が終わると撤去された。
次いで同40年代になると対岸の製錬所の社宅14棟(1棟7戸建)が建ち「赤長屋」と呼ばれるようになり、大正10年(1921)に久蔵の社宅がこの地に移されるなど変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、昭和34年(1959)には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐徐に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、足尾製錬㈱設立時(昭和62年4月1日)49世帯127人、平成9年(1997)現在で13世帯24人が住むのみとなり、昔日を偲ぶ”つわものどもの夢の蹟”となりつつある。

状態
2019年02月27日 更新

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愛宕下集落 住所

栃木県日光市足尾町愛宕下

愛宕下集落 種類

団地・住宅・別荘

愛宕下集落 画像・写真

愛宕下集落
愛宕下集落
愛宕下集落
愛宕下集落
愛宕下集落

愛宕下集落 ストリートビュー・空中写真

愛宕下集落 ブログ・リポート

くろべぇの廃墟 : 愛宕下集落 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/kurobee_ruins/archives/6309946.html
2008年9月17日、2009年1月2日、2011年10月10日探訪。 足尾銅山の鉱山社宅が建ち並ぶ愛宕下集落。 本山製錬所の川で挟んだ対岸にあった。 ※2009~2010年にかけて防火壁以外の全ての施設が解体済み。 集落のはずれにある 
REPORT - 0112│愛宕下地区|6Frogs - 行ってみたら凄かった。 │ 廃墟や廃村、秘境や遺構の調査レポート
http://ameblo.jp/6blogs/entry-10528744422.html
足尾銅山で最大級の居住区だった愛宕下地区、実は過疎化しているものの現在でもこの地区にお住まいの方が居る。今回は早朝の訪問でこっそりと写真を撮りに行って来た。同じ居住区では「深沢地区」が人気だがコチラもとても素晴らしい廃具合で沢山の廃屋が残されている、アナウンス
1259)下野ワンデイハイク 旧足尾町(10景目 愛宕下) - 風景居酒屋 ごじゃ満開
http://blog.goo.ne.jp/say10ya60/e/9c95c23a24419a870e96506e4593498a
今回ご覧いただくのは赤倉地区の北に位置する愛宕下地区です。その名の通り愛宕山の下に位置する集落で、前回ご覧いただいた龍蔵寺も同地区に建っています。江戸時代は坂詰と呼ばれる小集落でしたが1887(明治20)年の大火で消失後、明治40年代に入って「赤長屋」と呼ばれ
届かなかった場所: 俗・暇人とその周辺
http://s707721169.seesaa.net/article/234554557.html
銅山社宅が並んだという高原木の集落の跡(1949年には無人になったという)から松木橋を渡り、大畑沢緑の砂防ゾーンを通り、愛宕下橋を進むと集落へと入っていく。こちらが愛宕下の集落と呼ばれる地域。往時(1959年)は181世帯819人からなる集落も1999年で30
赤倉・愛宕下
http://www13.plala.or.jp/art-presents/asio/frameASIO/akakura.html
本山精錬所北部の松木川沿いにある集落が愛宕下である。江戸時代から人が住んでいたという記録があるが,明治20年,松木大火で消失した。明治40年代になり,製錬鉱夫の住居になり,14棟の長屋が作られた。その後最盛期には140世帯を超える家族が居住していた。これは,本

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