松山海軍航空基地の掩体壕 概要・歴史
ガレージや民家に転用された掩体壕
松山海軍航空基地の掩体壕は愛媛県松山市にある軍事遺構。
松山市には太平洋戦争中に松山海軍航空隊(北吉田町)と松山海軍航空基地(南吉田町)が設置された。当時の生石村沿海部に1941(昭和16)年から建設が始まり、約286ヘクタールの土地が収容され、130の家屋が移転を余儀なくされた。
基地は1943(昭和18)年10月から使用が開始され、第343海軍航空隊などの航空初帯が駐屯した。
1944(昭和19)年4月以降、空襲に備えて航空機掩体や隧道壕、誘導路、防空基地の建設が進められ、南吉田・垣生両地区に掩体壕が63基(有蓋掩体壕24基、無蓋掩体壕39基)が設置された。建設作業には学生生徒の勤労奉仕などにより進められ、一基造るのに三ヶ月もかかったという。
そのほとんどは戦後に撤去されたが、南吉田地区にはコンクリート造の有蓋掩体壕3基が今も残っている。
一部が倉庫に転用され、一基は松山市指定有形文化財に指定されている。他に関連遺構として弾薬庫、倉庫などに使用されていた垣生山の隧道群がある。また付近には松山海軍航空隊の碑が残る。
有形文化財となっている掩体壕①は、高さ5.12m、幅23.1m、奥行き12.25m。内部中央壁左側には「極天隊」「四〇一」の文字があり、また内部後部アーチ左側には「剣部隊(つるぎぶたい)」と書かれている。
極天隊(戦闘第四〇一飛行隊)は1945(昭和20)年2月に松山航空海軍基地で、第三四三航空隊(剣部隊)に編入されている。
極天隊は1945(昭和20)年3月に徳島基地へ移動するも、5月中旬に再び松山基地に復帰している。
2011-11-13
2023-04-06