ニコイ高原の廃墟 概要・歴史
未成に終わったリゾート開発跡
ニコイ高原の廃墟は岐阜県飛騨市(旧・吉城郡宮川村)にある未成リゾート跡。
山中に三角屋根のロッジや大型のコンクリート土台などがあり、ロッジ跡には1974年製のボイラーなどが残されている。その正体について長らくはっきりせず様々な憶測を呼んでいたが、1970年代に頓挫したリゾート開発の跡である。
同地付近には元々ニコイ平集落があったが、1962(昭和37)年11月に全戸離村。過疎化の悩みを抱えていたところ、1972(昭和47)年に名古屋市のリゾート開発会社が300万㎡の用地を取得、地元と利害を一致させる形で開発が進められたらしい。
『新立地・新事業』(エコセン地域開発情報室、1973年)では「業者の方でも学校の建て替えなどそっくり寄付することとなっており」と振られれている。この時点では「設計協議をしている段階」で、ファミリーゴルフ場9ホール、スキー場、27コースのアーチェリーコース、貸別荘、ホテル、遊園地、鍾乳洞鑑賞施設などの建設が予定され、1974(昭和49)年4月に工事開始、1975(昭和50)年12月までに第1期、1978(昭和53)年に第2期を完成する計画だった。
雑誌『中部財界』(中部財界社、1974年7月)には「開発利益の3分の1は村へ永久還元」「ニコイ高原開発で過疎対策」の見出しで、村とタイアップでの開発計画が取り上げられている。総面積502万㎡の土地に総工費70億円を投じる大規模な計画で、「ことし12月20日頃にはニコイ大滝、ニコイ大鍾乳洞を探勝するコース(全長80mの滝見橋は近く閑静)、レストラン、子供遊園地、アーチェリー施設、ボート池、駐車場、別荘地などが完成するため、一部今秋オープンする」とされている。
翌年の雑誌『中部財界』(中部財界社、1975年9月)では、「完成したニコイ大滝を展望する長さ100mの滝見橋や、鉄骨2階建て200名収容の三角形をしたモダンなレストラン、ニコイ大鍾乳洞の見学コースなどを披露」「8月18日からは350名以上収容できるロッジにも着工し、来年7月にはいよいよ本格的に第一次オープンする」とされている。
以上より、現存する三角屋根の建物はレストランであり、また「350名以上収容できるロッジ」に相当する施設は存在しない、またはレストラン隣のコンクリート遺構がもう一つのロッジのになる予定だったと考えられ、1975年にプレオープンしたものの、本格開業前に工事がストップしたことと推測される。
実際、さらに翌年の雑誌『中部財界』(中部財界社、1976年4月)では、開発会社の(株)秀和が「事実上倒産」し、「ニコイ高原開発の停滞もあって」、同社の経営していた茶臼山カントリークラブの売却交渉が進められていることが記されている。
『郷土関係新聞記事索引 第5集』(岐阜県立図書館、1979年3月)には「過疎脱却の夢しぼむ 宮川村のニコイ高原 レジャー基地ざ折」の見出しがあり、既に開発計画が頓挫していることがわかる。
上述の通り、三角屋根のロッジや大型のコンクリート土台が遺構として現存する。その西の道路南には人工的な池があったらしいことが1977年の空中写真でわかるが、その跡地は「石庭公園」等になっており現存しない。
また少し離れた箇所にはニコイ大滝と滝見橋が残っている。ゴルフ場やアーチェリーコース、ホテルなどはそもそも工事着手されなかったらしい。
なお、開発計画前のニコイ平集落には1952(昭和27)年に開校した種蔵小学校ニコイ平分校があったが、1962(昭和37)年に閉校、集落跡の痕跡は残っていない。
