鮎帰小学校責分校は熊本県八代市(旧・坂本村)にあった学校。 1881(明治14)年、川原谷に出張授業所...

鮎帰小学校責分校

鮎帰小学校責分校 概要・歴史

鮎帰小学校責分校は熊本県八代市(旧・坂本村)にあった学校。 1881(明治14)年、川原谷に出張授業所...

鮎帰小学校責分校 画像

鮎帰小学校責分校(1976年10月)
©国土地理院

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鮎帰小学校責分校 関連ブログ・参考リンク

http://www.geocities.jp/purelove_haikyo/haikyo18/ayukis01.htm
熊本県の山中にある責分校がこのほど解体されました。
http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/ayu.html
鮎帰小学校責分校鮎帰小学校責分校沿革概要明治14年:川原谷に出張授業所開設校舎当時渡辺江之助氏宅明治32年:川原谷分教室再々開校舎当時吉田清三郎氏宅明治40年:当時丸岩与一氏宅に移転大正03年:校舎現在地に移転昭和34年:分校々舎木造二階に改築現在に至る
https://haradaoffice.biz/seki-bunko/
責分校は、かつて八代市坂本町にあった鮎帰小学校の分校です。閉校後も木造校舎が残っていましたが、現在は解体されていて学校跡のみが残ります。
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/ayu.html
鮎帰小学校責分校 鮎帰小学校責分校沿革概要 明治14年:川原谷に出張授業所開設         校舎 当時渡辺江之助氏宅 明治32年:川原谷分教室再々開         校舎 当時吉田清三郎氏宅 明治40年:当時丸岩与一氏宅に移転 大正03年:校舎現在地に移転 昭和34年:分校々舎木造二階に改築 現在に至る本校の歴史は明治時代まで遡ります。明治時代の初頭にはまだ学校の建設が追いつかず、民家を借り上げて授業を行ったところが多々あったようです。しかし、日本中で当時の国民に等しく教育を施そうと、官民が一体となって進められていた事が伺えます。そして、大正時代には、川のほとりに学び舎を構えていたようです。鮎帰小学校とその分校は、この明治からの歴史を今日に伝える近代歴史遺産だと感じます。雨の降る中、責分校を目指して。高速道路が谷をまたいでいます。imgayu35責分校全景手前が分校のプールです。学校の敷地内を川が横切っています。校舎グランドの端から校舎を見る。校舎の裏側には、川に下りる階段がありました。川で遊べる平らな場所もありました。が、いずれも苔と草に覆われていました。グランドに立つ、責分校の記念碑。道路側から校舎を見る。バス停があります。また右に隣接して給食室、談話室、先生の赴任所(単身赴任対応?)が有ります。1階廊下1階の入り口から廊下を見てみます。現在、1階は山火事対応の前線基地と、選挙投票所などの公民館代わりとして活用されていますので、取り壊しになることは無さそうです。階段階段です。壁には社会科の教材なのか、学校付近の航空写真が飾ってありました。手すりも木製です。階段を二階へ。二階の廊下二階の廊下。木枠の窓が広くとってあり、雨の日ながら明るい廊下でした。一階の廊下にもありましたが、信号の教材が設置してあります。近所には信号は全く無く、学校で慣れさせるためではないかと思います。そういえば亡父の母校もグランドに線路を渡る際の教材として踏み切りが置いてありました。教室教室。デスクも椅子が並んでいました。最後の授業のそのままなのでしょうか。「まなびやよ、くずるることなく、わがうちに」教室から外を。教室の木枠の窓から、誰も居ない校庭が見えました。imgayu12色あせた遊具が、雨に濡れていました。→廃虚近代遺跡目次へ戻る→みに・ミーの部屋に戻るCloseClose