帯江鉱山(おびえこうざん)は岡山県倉敷市にあった鉱山。「帯江銅山」(おびえどうざん)とも呼ばれる...

帯江鉱山

帯江鉱山 概要・歴史

帯江鉱山(おびえこうざん)は岡山県倉敷市にあった鉱山。「帯江銅山」(おびえどうざん)とも呼ばれる...

帯江鉱山 画像

帯江鉱山の精錬所(1947年10月)
©国土地理院
(2020年6月)
©国土地理院
帯江鉱山火力発電所(1947年10月)
©Google
(2020年6月)
©Google

近くのスポット

帯江鉱山 ストリートビュー・空中写真

帯江鉱山 関連ブログ・参考リンク

http://oyajinokyuusoku.blog.ocn.ne.jp/top/2010/01/post_b286.html
倉敷市中庄に昔「帯江鉱山(銅山)」があったそうです今日はその遺構をひとつ中央に横たわっているいるのは煉瓦造りの煙突ですもう少し近くに帯江鉱山は明治時代に繁栄して大正時代に閉山なったそうでこの煙突は発電所だったそうです煙突は手前の煉瓦に乗かっていたみたいです反対
http://www.mutu.jp/sika/colum/doctor_colum23.htm
◆鉱山の起源◆中帯江の北部丘陵地帯に銅の鉱石が眠っている事は古くから知られており、天平勝宝4年(752)奈良の東大寺大仏鋳造に使われたと言われている。標高僅か100m程度にすぎないが、かつては宝の山であった。この丘陵では江戸時代にも銅鉱石の採鉱が行われていた事
https://machinooto.exblog.jp/241202681/
 ふと思いついて、倉敷市郊外にある「帯江鉱山」の遺構を見に行ってきました。 「帯江鉱山」とは、明治時代~大正時代に操業していた銅山で、かつてはその製錬所の大きな煙突が遠くからも望めたとか。画家・児島虎次郎の油絵「酒津の農夫」(1914年)、「酒津の秋」(1917年)にも、遠景に帯江鉱山の煙突が小さく描かれています。 このことは地域史の本などに書かれているので、私は図書館で知りましたが、その後ネット検索してみると訪問記もいくつか見つかり、いつか私も現地に行ってみようとずっと思っていました。グーグルマップ等で、たぶんここ!と思われる場所も確認しました。が、徒歩では不便な場所ということもあり、長らくそのままに・・・。
http://hanaara.jp/toyosu/nakaobie/4douzan.htm
「目次」へ戻る第4章 帯江銅山・山の神の独り言 やあやあ、我こそは「山の神」なり!。えっ、知らないって!。もう、面倒な世の中になったもんじゃなー。自己紹介などしてしんぜようかな。  そもそも日本人の自然観には、「万物に神宿る」とか「八百万の神(やおよろずのかみ)」とかいっての、人間たちの周りのいろんなものには、みな神様が居られるという考えが長いこと続いてきたんだよ。そこここの岩や、松の木、山や森、みんな神様がいて、大切にしなきゃあいけんものじゃったんよ。まあ、究極のエコロジーなんじゃ。 山や森も、西洋では魔物が棲むらしいけれども、日本では精霊が住む神聖な所なんじゃよ。 で、われはこの、中帯江と中庄の間の山を守る「山の神」じゃといったら、信じてくれるかのう。まあ、信じるかどうかは別にして、この山には神がいるということだけは、覚えていてくださいな。あ、神がこんなことお願いするとは、まこと世の中変わったもんじゃのう。 じゃが、今日はこの山の「かね気」のお話をせよと、編集委員がうるさいのでのう。我が内臓である銅鉱石、銅山の話を、少々しようかと思うんだぞえ。1、 誰かが掘り始めた銅鉱山 岡山、おっと当時は吉備といったわえ。ここの山に銅などの金属鉱床が眠っているのは、かなり前から知られていたらしいのよ。もちろん「山の神」の我は、数十万年前から知っておったんじゃがのう。人間どもに知られたのは、奈良の大仏建立に当たって、ここの銅が使われたという、まあ神話に近い話があってのう。真実は我のみが知るのじゃが、内緒・ないしょじゃ。 その次に早島出身で、あの石見銀山(島根県)を世界的な銀山に押し上げた功労者の安原備中守という人が、その前に金田のあたりで掘っていたという話もある。今から400年前のことじゃがのう。2、 明治初めの開発 平和じゃった江戸時代は、この山も平穏じゃったのう。不洗観音さんが次第に盛んになったくらいじゃ。まあ、黒崎鉱山とか吉田鉱山とかの名が古文書にあるようだから、江戸時代にもちょっとづつこの山で銅を掘っていたのかな? 盛んになったのは明治に入ってじゃな。明治政府が「日本坑法」を決めて、誰でも鉱山を開発できたり、地...らは、当時をしのぶことは出来なかった。  写真の黒い煙突は発電所のものと思われる。倒されたものが現在も残っているという情報をもとに探して歩く。 住宅の間に雑草の茂った辺りが、発電所のあった跡らしいと、夏草や栗の木を押し分けて奥へ進んだ。敷地の一番奥、東の田との境に黒褐色の大きい物体が横たわっていた。”これだ”みんな一斉に声を上げた。耐火煉瓦で造られた大煙突だ。 根元は直径2.80mもある八角柱だ。壁の厚さは80cm、長さ10.3mもある。 煙突の高さは50m。昭和6年ごろまでは立っていた。そのころ煙突の先が六間川に落ちたと言われている。池田さんの聞き取りによる。 傍らに煙突の根元らしい構造物。また数メートルはなれた場所に機関部の炉が残っていた。焼け焦げた耐火煉瓦やこびりついた鉱物に、しばらく当時の最先端の工場を想像して、感慨深いものがあった。 次は、黒崎北、旧東紅園の近くの三野さん宅の植野清子さんに聞き取りに。 植野清子さん(大正四年生まれ)より聞き取り 私の父親は発電所の技師であった。小学校3年のとき、発電所が止んだから、父は柵原鉱山に転勤したので私も柵原の小学校に転校した。ここには小学校3年までいた。そのころは煙突は立っていた。敷地が広かったから、敷地内でよく遊んだものだ。前の六間川ではよく泳いだ。周囲は全部田んぼで、い草や稲を植えていた。(鉱毒のため、年中水を溜めておかないと稲が出来なかったとか) 家の前の道を隔てて、すぐ鉱山である。柵で囲った坑口がまだ2~3ヶ所残っているはずだが、今は木がうっそうと繁り、山にはとても入れそうに無い。植野工さん(大正2年生まれ)より聞き取り 植野さんの家からは横たわった煙突がよく見える。現在私の家が建っている所は、発電所の事務所の跡です。小学校3,4年のころ(大正12年ごろ)までは発電所は動いており、ボイラーは2基あって黒い煙を出していたのを覚えている。 当時は別の場所に住んでいたが、六間川で泳いだり、発電所の南側の広場で遊んだものだ。六間川には船がよく出入りしていた。トロッコがあったことは知られていない。 煙突はレンガを取るために倒したが、セメントがよくくっついていたので、レンガを取り出せないため、現在まで残ったとのことである。 Powered by FC2ホームページ
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