金丸原陸軍飛行場は栃木県大田原市にあった旧軍施設。 1909(明治42)年に陸軍特別大演習が那須野が原....

金丸原陸軍飛行場

金丸原陸軍飛行場 概要・歴史

金丸原陸軍飛行場は栃木県大田原市にあった旧軍施設。 1909(明治42)年に陸軍特別大演習が那須野が原....

金丸原陸軍飛行場 画像

金丸原陸軍飛行場掩体壕跡(2022年3月)
© 2022 廃墟検索地図 転載禁止
現役ゴルフ場の倉庫となっているため、見学には事務所に申し出る必要がある
© 2022 廃墟検索地図 転載禁止
分厚いコンクリート
© 2022 廃墟検索地図 転載禁止
© 2022 廃墟検索地図 転載禁止
© 2022 廃墟検索地図 転載禁止
案内板が設置されている
© 2022 廃墟検索地図 転載禁止
土木遺産に認定されている
© 2022 廃墟検索地図 転載禁止
© 2022 廃墟検索地図 転載禁止

近くのスポット

金丸原陸軍飛行場 ストリートビュー・空中写真

金丸原陸軍飛行場 関連ブログ・参考リンク

http://kanreport.blog58.fc2.com/blog-entry-167.html
栃木県大田原市金丸には、金丸原陸軍飛行場の掩体壕が1基のみ残っている。金丸原飛行場は沿革は、昭和9年金丸原演習場の一部が、所沢陸軍飛行学校の不時着場になる。昭和10年所沢陸軍飛行学校金丸原分教場に指定される。昭和12年熊谷陸軍飛行学校金丸原分教場になる。昭和1
http://www.warbirds.jp/airport/tochigi/kanamaru.html
大田原金丸飛行場投稿者:へんじん投稿日:2001/01/31(Wed)21:37:22大田原金丸飛行場(陸軍のものらしい)現在は田畑および、ゴルフ場になっていますが、付近のゴルフ場敷地内にコンクリートでできた機体を隠蔽しておく掩体壕(でしたっけ?)が最近まであ
http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/kanemaruhara-airfield
栃木県大田原市南金丸にあった「金丸原陸軍飛行場」。ここは元々人家がなく、数条の草刈りや作場の道が通るだけの未墾の土地でした。この飛行場には上図の通り2本の滑走路がありました。当記事内では便宜的にそれぞれ「A滑走路」、「B滑走路」とさせて頂きます。滑走路位置につ
http://garitune.hatenablog.jp/entry/2011/06/12/223245
ちょっと前の地図を見ると、金丸原飛行場跡の丘陵を走る細道に「黒羽街道」という名前が書かれていた。実際には丘陵を避けるように新黒羽街道国道461号が通っており、かつてはこの細道が主要な道であったことがわかる。国際医療福祉大学(1995開学)が出来る以前、丘陵を上
http://blogs.yahoo.co.jp/trpys563/11198608.html
大田原市史後編(大田原市史編さん委員会、昭和五十七年十二月一日発行)P717金丸原陸軍飛行場開校偶然にも一月後の五月十日には、金丸原陸軍演習場の東北隅に熊谷陸軍飛行学校の金丸原分教場が設置開校されたのである。「侍ニッポン」の作曲者松平信博の「新民謡・大田原小唄
https://airfield-search2.blog.ss-blog.jp/kanemaruhara-airfield
栃木県‎大田原市‎南金丸‎にあった「金丸原陸軍飛行場」。ここは元々人家がなく、数条の草刈りや作場の道が通るだけの未墾の土地でした。この飛行場には上図の通り2本の滑走路がありました。西側が主滑走路、東側が副滑走路。
http://tekdiver2.sitemix.jp/html2/arakawas/backn016/kanamaru/kanamaru.html
金丸原飛行場跡先日調布で行われた「掩体壕展」で、金丸原飛行場の存在と那須野ヶ原CCに残る一基の掩体壕のことを知り、見に行くことにした。金丸原飛行場については、『那須の太平洋戦争』(北那須郷土史研究会 下野新聞社)という本に詳しく出ている。1912年(明治45)年 金丸原演習場、廠舎として竣工1934(昭和9)年 所沢陸軍飛行学校の不時着場になる。1935(昭和10)年 所沢陸軍飛行学校 金丸原分教場になる。1937(昭和12)年 熊谷陸軍飛行学中学は飛行場のはずれにあり、創立されたのは昭和24年らしい。ということは、古い忠魂碑はもともとここにあったわけではなく、移設された可能性が高いだろう。校 金丸原分教場になる。1941(昭和16)年 宇都宮陸軍飛行学校 金丸原教育隊になる。1945(昭和20)年 実戦配備。防空戦闘に参加。終戦により廃止。とのこと。つまり、戦争末期になって慌てて作られた急造の本土防衛用飛行場ではなく、戦前から使われていた陸軍の施設である。旧黒羽街道から撮った飛行場跡地の風景。一面の畑である。大田原市金田南中学校(地図)に金丸原飛行場之跡碑がある。中学校の駐車場は校舎のすぐ脇だった。出ていらした先生に事情をお話ししたら、「碑は校門脇にあるので、ご自由に見学下さい」とのことだった。その場所に行ったら、石碑は全部で三つあった。金丸原旧陸軍飛行場之跡碑 昭和55年建立忠魂碑 大正2年建立 慶応4年9月に奥州若松で亡くなった方は戊辰戦争に参加されたのだろう。その後、日清、日露戦争で亡くなられた方が祀られていたが、碑建立後も大正8年に西伯利亜(シベリア)派遣軍に従軍し、大正9年に黒河○院(病院か?)で亡くなった方、昭和7年2月に上海で亡くなった方が追加されたようだ。前者はシベリア出兵、後者は第一次上海事変である。中学は飛行場のはずれにあり、創立されたのは昭和24年らしい。ということは、この碑はもともとここにあったのではなく、移設されたのでは?大東亜戦争戦没者英霊碑 昭和32年建立昭和12年の日華事変から終戦まで網羅那須野ヶ原CCの掩体壕。ゴルフ場に着き、受付のある建物に入り、「金丸原飛行場の掩体壕が見たいのですが」と切り出した。予約もしていないし、ゴルフ場の客でもないので断られるかと思ったら、受付の奥から出てきた係の男性「掩体壕の見学ですね?いいですよ」と言いながら、「あのあたりの切れ目から敷地に入って下さい」と言い、だいたいの行き方を指示して下さった。ありがとうございますm(_ _)mということで、ゴルフ場の敷地に入ったら、キャディーさん(中年女性)発見。念のため、彼女に行き方を訊いたら、「昨日もタクシーでわざわざ見に来た人がいたのよ」と言いながら、「カートで連れて行ってあげるわ」と申し出て下さった。うわぁ・・・仕事中なのにいいんですか?かたじけない。ということで、歩けば10分くらいの坂道をカートで往復させていただくことになった。掩体壕は坂を下りきった場所にあった。脇から見ると、木の生えた小山のようだ。キャディーさんは掩体壕の前にカートを止め、「ゆっくり見ていって下さい」とのこと。中に入っていいというので、車庫代わりに使われている壕に入った。零戦よりも大型の飛行機用の壕として作られた感じで、入り口部分のコンクリに破壊の跡があった。当初、これを壊そうとして、断念したのかもしれない。キャディーさんの話では昔はこれ以外にも掩体壕があったそうだが、これ以外は現存していないのでは?とのことだった。金丸原飛行場の掩体壕の場所(那須野ヶ原CC)栃木県大田原市南金丸2025(地図)彼女から、近くの国際福祉大学(地図)の敷地に兵舎が並んでいたという話をきいたのだが、現在は何も残っていないようなので、正門の前で写真撮影だけした。
http://nasunojyunin.livedoor.blog/archives/7013567.html
県北に飛行場が・・・(その1)現在、国際福祉大学キャンパスがある大田原市金丸には、むかし飛行場がありました。滑走路が2本ある陸軍金丸原飛行場です。
https://saiseiojisan.blog.fc2.com/blog-entry-1707.html
大田原市史 後編(大田原市史編さん委員会、昭和五十七年十二月一日発行) P717金丸原陸軍飛行場開校  偶然にも一月後の五月十日には、金丸原陸軍演習場の東北隅に熊谷陸軍飛行学校の金丸原分教場が設置開校されたのである。「侍ニッポン」の作曲者松平信博の「新民謡・大田原小唄」(作詞星野尚夫)で「花の益荒男笹リンドウは、与一誉の紋所、空の港の金丸原で、若いパイロットがトントパイロットが胸に棲むトントサ」と唄われた。まだのどかな時期でもあったのである。