神保集落(旧・奥小屋村) 関連ブログ・参考リンク
http://bansyu.com/1409jinbo/jinbo.htm
平成26年5月24日(土) メンバー 私だけ JR姫新線西栗栖駅~麦子口~栗栖池~神保廃村~高下~神姫バス山崎待合所 たつの市の北端、市境界線が宍粟市に食い込む山深い地に、500年続いた平家落人伝説がある神保集落があった。
http://shiso-sns.jp/blog/blog.php?key=11685
(しそうの逸話)「西山由来記~時朝五郎左衛門のこと~」で時朝氏が住んだ神保のこと、少し調べてみました。私たちと同年輩かその上の方なら、菅野の山奥、新宮町との境界あたりの山間地に神保という集落のあったこと、耳にされたり、あるいは所縁のあった方もいらっしゃるはず・
http://blog.goo.ne.jp/smailpoint/e/f5353945081854f898267f562fed3a95
この廃村は、昔、新宮町神保ではなかった。昭和14年に、宍粟郡菅野村であった神保、奥小屋を今の新宮町西栗栖村へ編入した。過去私の山ともだった凡太郎さんが訪れたことを知っていた。やっと叶えた廃村訪問、名刺がいるだろうか。宍粟市山崎町の「山崎29」の高速道路の高架下
http://park19.wakwak.com/~dannobontaro/yamatecho/kurisuzinpo.htm
新宮町:廃村神保と栗栖池昭和47年に廃村となった。一番の原因は電話が通じなかったからだ。電灯は昭和30年代に通じていた。つい30年ほど前まで人がいたなんて。また500年間続いた平家村だった。そんなに歴史があったことにも驚いた。(参考:新聞で見る新宮の100年)
http://blogs.yahoo.co.jp/niuyamada/30832956.html
新宮町を流れる栗栖川源流の廃村を訪ねてきました。ネットで調べたところ山崎町側からのほうがアプローチがいいようですが、当然、新宮側から行ってきました。結果としては、新宮側からも道は通じているのですが倒木が積み重なりかなり歩きづらくなっています。この倒木は神保まで
http://yabuyamatankentai.blogspot.jp/2010/04/blog-post_25.html
山崎の山奥にあった神保という集落のことは、[1]で知りました。昭和47年に廃村になった平家村だそうです。地元の人に聞くと、ここの子どもたちが菅野小学校まで歩いて通っていたという話は結構有名なようでした。雨ヵ岳に行ったとき(2006/12/29)に寄ろうとしたの
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/28.Hyogo/Shingu_Jinbo.html
◆神保(じんぼ)所在:たつの市新宮町奥小屋(しんぐうちょうおくごや)地形図:土万/佐用形態:川沿いに家屋が集まる標高:約250m訪問:2010年10月 大字奥小屋の北部にある。栗栖(くりす)川の最上流部。 山崎町【現・宍粟市】側から集落の近くまで車道が通っているが、新宮町側より徒歩で訪問。2009年の台風の影響のためか倒木が多く、道は荒れている。 集落では2軒の屋敷跡と神社のようなもの(写真2)が残る敷地を確認。また川に沿って市の境界まで農地の跡が続いている。 『西栗栖村史』の記述より、昭和初期には5軒があったことが分かる。当時大字奥小屋は小菅村(のちの山崎町、現・宍粟市)に所属しており神保の子供も小菅村の学校に通っていたが、昭和14年4月に西栗栖村(のちの新宮町)に編入。奥麦子・奥小屋では通学も西栗栖村で、西栗栖村への編入の希望があったが、この神保の5軒が反対していたという。 また町史によると、昭和47年に最後まで残っていた家族3人が離村し無人になった。電灯が引かれたのは昭和30年で、町内では最後の無灯火地区。 なお栗栖池にある説明板には3軒とあるが、年代は不明。 写真1 蔵写真2 神社跡?※ 以下携帯電話による撮影写真3 集落内の川写真4 祠