大河内集落 関連ブログ・参考リンク
http://heyaneko.jugem.jp/?cid=14
平成28年4月16日(土)、福井県大野市旧西谷村、 中島、上笹又への旅。 上笹又を訪ねるのは6回目だが、これまで国道からはずれて ダム用地(真名川)のほうに向かうことはなかった。 今回初めて足を運んだダム用地(真名川)には
http://heyaneko.web.fc2.com/fs17.html
碑を過ぎてすぐの橋を渡った三差路,私は「左に行けば大河内」と思い続けていて,今回も左に向かったが,これは大間違い。私は前回迷い込んだのは鈴谷川沿いの道ではなく,一つ手前の川沿いの道だった。この三差路を右に進めば,鈴谷川の合流点には迷いようがない細い道があるだけ
https://blogs.yahoo.co.jp/eikyuuji/13401401.html
興味があって若いころは何度も足を運んだ大河内集落不思議な石段の登り口発見!うひゃ~こんなところに鳥居が!神社があるのかな大河内神社?
http://www.breeze.opal.ne.jp/newpage17.html
ここでも十分に秘境の雰囲気なのだが、大河内の集落跡は更に4Kmほど奥にある。橋の銘板には確かに「大河内大橋」と記されている。大橋というほど大袈裟なものでもないような気がするが、こんなに山奥に造ったのだから、BigProjectBridgeなのだろう。拡大林道の
http://blog.livedoor.jp/date_fall_reply/archives/70069287.html
大宮町大河内にやってきました「おごいち」なんてとても読めないですが地名は難しいです案内人は荒田さん紹介の「大河内」出身の大河金夫さんです場所は大宮町上常吉の磯砂山街道から右へ入ったところですここが集落の入口で今立っているところと一つ前の耕地が大河さんの屋敷跡だ
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/18.Fukui/Imajo_Okochi.html
◆大河内(おおこうち・おおこち)※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「冠山」(昭和26.3)を使用したものである所在:南越前町大河内地形図:広野/冠山形態:川の合流部に家屋が集まる標高:約410m訪問:2012年11月 町の東部、日野(ひの)川の上流にある。 町誌によると、集落の起源は滋賀県永源寺町【現・東近江市】君ヶ畑(きみがはた)から分かれた木地師の定住と伝わり、往古は木地職専門で暮らしていたという。明治28・29年の大水害により耕地の流出・集落有林のほとんどが保安林や砂防指定地となり、開墾・伐採の大幅な制限により生活の道が絶たれ、同41年半数が北海道に移住。その後の家数は安定するが、昭和34年頃から離村者が出始め、昭和41年無住となる。神社は大河内神社(昭和39年12月町内今庄の新羅神社に合祀)。川沿いの道が通じたのは戦後で、それまでは広野(ひろの)から山道を歩いたという。明治40年頃の家は、中村2・水上2・山田2・山本2・川田・河田・岸田・坂口・阪本・田中・谷口・橋詰・橋本・水口・宮下・村田・山下各1の計21戸。また昭和40年頃の家と転出先は以下のとおり。番号姓転出先1橋本町内2坂口福井市3川田武生市【現・越前市】4山田福井市5山田福井市6阪本武生市7谷口福井市8田中敦賀市9山本愛知県以下は学校の沿革。 大正3 (就学免除の措置が解かれ、「明正学舎」で集落の長老より指導を受ける) 大正15 堺東尋常小学校大河内分校として開校 昭和16 堺東国民学校大河内分校と改称 昭和22 堺東小学校大河内分校と改称 昭和40 廃校 なお大字大河内は近世の南条郡大河内村。明治22年鹿見村(のち堺村→今庄町)の大字となる。大正9年10戸74人、昭和10年9戸66人、同30年12戸58人(角川)。 現地には作業小屋のようなものが3、4軒ほど建っており、度々人の出入りがあるよう。集落やや下手には小さな畑もある。集落内に植林はされていないが、荒寥とした景色が広がる。川の合流部となっている尾根には神社の跡があり、鳥居と水盤と思われる石の槽が見られた。※2014年10月追記写真9について当初は「水盤?」としていたが、HEYANEKO氏が元住民と訪れた際に鳥居の扁額であることが判明 写真1 道中の「日露戦記念碑」写真2 集落入口写真3 小屋写真4 屋敷跡写真5 石垣写真6 農地跡写真7 灌漑設備?写真8 鳥居写真9 扁額