新宮ダム湖底のマチュピチュは愛媛県四国中央市にある廃村の通称。 1975(昭和50)年に完成した新宮ダ...

新宮ダム湖底のマチュピチュ

新宮ダム湖底のマチュピチュ 概要・歴史

新宮ダム湖底のマチュピチュは愛媛県四国中央市にある廃村の通称。 1975(昭和50)年に完成した新宮ダ...

新宮ダム湖底のマチュピチュ 画像

新宮ダム湖底のマチュピチュ
2021/05 ©Google
水没前(1962年8月)
©国土地理院
水没後(2015年9月)
©国土地理院

近くのスポット

新宮ダム湖底のマチュピチュ ストリートビュー・空中写真

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https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/3/view/539
新宮ダムの完成で水没する世帯は、一般100世帯(うち新宮村75世帯、あと伊予三島市)、公共施設4棟であった。75世帯のうち村内に残ったのはわずか3世帯で、96%の人々は川之江市方面に移転していった。
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/38.Ehime/Shingu_Kurinoshita.html
      ◆栗之下(くりのした)※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「三島」(昭和22.2)を使用したものである所在:四国中央市新宮町馬立(しんぐうちょううまたて)地形図:伊予三島/伊予三島形態:川の合流部に家屋が集まる標高:約230m(水面は約230m)訪問:2018年8月  大字馬立の北西部、銅山(どうざん)川と支流の中の川との合流部付近にある。日浦(ひうら)集落から銅山川を挟んだ対岸。 上流に隣接する伊予三島市【現・四国中央市】の魚簗場は新宮(しんぐう)ダムの湛水に伴い一部が水没しているが、当地も完全な水没は免れているよう。国道沿いに1軒の家屋が見られ、国道下にもいくらかの遺構が残されている。さらに地名表記の南東斜面、標高およそ320m付近にも宅地があり、国道から車道も分岐しているが、これは未訪問。 村誌には、新宮ダムの建設に伴い25戸が水没、5戸が残存とある。ダム建設の主な沿革は以下のとおり。 昭和45.2.25 水資源開発基本計画に、新宮ダム建設事業が追加される 昭和45.3.1 伊予三島市【現・四国中央市】に新宮ダム調査所開設 昭和45.8.1 新宮ダム建設所に名称変更 昭和46.4.1 新宮ダム建設所移転 昭和46.7.1 新宮村、公共補償等の要望書提出 昭和46.11.29 工事用道路の施工について覚書締結 昭和46.12.30 補償基準発表 昭和47.11.7 一般補償基準妥結 昭和47.11.11 公共補償基準妥結 昭和48.3.27 公共補償について村と公団が協定締結 昭和48.4.5 ダム本体掘削工事開始 昭和48.6.4 水没世帯補償契約完了 昭和48.10.19 ダム本堤コンクリート打設開始 昭和48.11.10 少数残存世帯補償妥結 昭和49.3.27 新宮村公共補償調印締結 昭和49.4.16 定礎式 昭和50.1.28 少数残存世帯移転完了 昭和50.3.26 水没世帯移転完了 昭和50.5.13 ダム建設工事完了 昭和50.6.14 湛水開始 昭和50.10.29 竣工式 昭和52.3.25 地辷り対策工事竣工 昭和52.3.31 ダム建設事業完了 なお他の地域では日浦五味で9戸水没、古野で14戸水没、川淵で17戸水没、3戸残存となっており、水没世帯は計65戸。 (写真1 新宮ダム堰堤)写真2 集落遠景写真3 家屋写真4 集落内の道写真5 旧道の橋跡。対岸は魚簗場写真6 遺構写真7 屋敷跡?写真8 浴槽写真9 何かの跡写真10 遺構写真11 遺構写真12 屋敷跡写真13 水面の風景写真14 日浦を望む