https://arajishi.net/ishizuchi/ishizuchisyotyu.html
◎石鎚小・中学校雪の石鎚小・中学校(昭和40年頃)【石鎚小学校】明治41年 千足山村に「千足山尋常小学校」(途中の川)が設置され、土居、郷、黒川、戸石に分教場を置く大正12年 本校を郷に移し「千足山尋常高等小学校」となる昭和4年 本校を現在の場所に移し、土居、黒川分教場を廃止昭和 5年 本校統一記念式挙行昭和22年 「千足小学校」となる昭和30年 「石鎚小学校」となる昭和52年 閉校【石鎚中学校】昭和22年 「千足中学校」開校昭和26年 「石鎚中学校」となる昭和52年 閉校千足中学校(のちの石鎚中学校)落成式(昭和22年)合併記念式・当時の石鎚村全世帯(昭和30年10月)石鎚小・中学校運動会(昭和40年)石鎚小・中学校運動会(昭和40年)石鎚中学校(昭和45年頃)石鎚小・中学校閉校式(昭和52年3月)想い出の校舎へ戻る
https://yugun-e.esnet.ed.jp/blogs/blog_entries/view/38/7ffa1098de8d52c2e471e7c9b5f44925?frame_id=89
関サカエさんは、神風特攻隊第1号と言われる、西条市出身の「関行男」大尉(※戦死後2階級特進で中佐となる)のお母さまです。 関大尉は、敗戦の色が濃くなった時期のレイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特別攻撃を行い、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したことで、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰されます
http://blog.livedoor.jp/danke_323/archives/1646340.html
石鎚小学校跡の門柱の横に、なにやら看板が立っている・・・・?そこにはなんと・・・!関サカエさんの終焉の地それを知らせる看板が立っていた!関サカエさんは、大東亜戦争にて、23歳の若さで人間爆弾として敵の母艦に体当たりして散っていた神風特攻隊、関行男氏のご母堂様。
http://nakazen.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-5b66.html
軍神の母と尊敬の目を集めていたサカエは、逆に冷たい視線にさらされる。行商の生活に行き詰まっていたサカエを、山奥の石鎚小・中学校の用務員に呼び寄せてくれる人がいた。・・・山の学校へ来て6年目、石鎚おろしの風の冷たい11月、教員たちに頼まれた買い物の途中、サカエは雑貨屋の店頭で胸を押さえて、倒れた。かつぎ込まれた用務員の部屋で、のぞき込む校長夫妻に・・・最後の言葉をつぶやく。「行男の墓をたててやって下さい」・・・これで、関家は断絶した。貧しい母は、国のために散華した息子の墓すら、建てられなかった。息子が国を思うほど、国は息子を思ってくれなかったのである。」