石鎚小中学校は愛媛県西条市(旧・石鎚村)にあった学校。 石鎚小学校は1908(明治41)年、千足山村に....

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名称 石鎚小中学校
住所 愛媛県西条市小松町石鎚
種類 廃校
愛媛県の廃校
スコア
★★★★★★★★★★ 40
現況
評価 ■■
画像 photos 石鎚小中学校の写真

石鎚小中学校 概要・歴史

「軍神の母」関サカエ終焉の地

石鎚小中学校は愛媛県西条市(旧・石鎚村)にあった学校。

石鎚小学校は1908(明治41)年、千足山村におかれた千足山尋常小学校を前身とする。1923(大正12)年、本校が郷に移され千足山尋常高等小学校となる。

1929(昭和4)年、本校を現在位置に移し、土居、黒川分教場を廃止。1947(昭和22)年に千足小学校、1955(昭和30)年に石鎚小学校となる。1977(昭和52)年に閉校した。

石鎚中学校は1947(昭和22)年に千足中学校として開校。1951(昭和26)年に石鎚中学校となる。小学校と同じ1977(昭和52)年に閉校。

校舎は解体されているが、門柱跡が残されている。

なお、石鎚村は1955(昭和30)年に石鎚村、小松町、石根村の1町2村の合併により小松町となり、小松町は2004(平成16)年に西条市・東予市・丹原町・小松町の2市2町の新設合併により西条市となっている。

石鎚小中学校は、太平洋戦争のレイテ沖海戦において、最初の神風特別攻撃隊の一隊「敷島隊」を指揮して、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈し、さらに護衛空母3隻を撃破した武功で知られ、戦中は軍神と称えられた関行男大尉の母、関サカエが住み込みで働いたことで知られる。戦中は「軍神の母」の讃えられたサカエだが、敗戦後は一転、「戦争加担者」の誹りを受けることになり、物置を借りて住み草餅の行商で生計を立てる身となった。後に石鎚村立石鎚中学校に用務員として雇われ、生徒からは「日本一の小使いさんの関おばさん」と呼ばれ親しまれたが、1953(昭和28)年11月9日に用務員室で57歳で急死した。石鎚小中学校には関サカエが最後に暮らしたと言われる家が倒壊寸前の状態で残されている。この民家には今でも献花や靖国神社のお守り等を供えて行く方が見られる。

なお、石鎚村は1955(昭和30)年に石鎚村、小松町、石根村の1町2村の合併により小松町となり、小松町は2004(平成16)年に西条市・東予市・丹原町・小松町の2市2町の新設合併により西条市となっている。

注意 痕跡を残しての再利用・一部現役・一部解体等、通常の不使用状態ではありません

石鎚小中学校 画像

石鎚小中学校(2022年2月)
石鎚小中学校(2022年2月)
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「軍神の母」関サカエ終焉の地
「軍神の母」関サカエ終焉の地
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校舎基礎跡
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関サカエが暮らしたと言われる家
関サカエが暮らしたと言われる家
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倒壊寸前となっている
倒壊寸前となっている
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物品から察して関サカエ逝去後も長く使われていたらしい
物品から察して関サカエ逝去後も長く使われていたらしい
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近くのスポット

石鎚小中学校 ストリートビュー・空中写真

石鎚小中学校 関連ブログ・参考リンク

石鎚小中学校
https://arajishi.net/ishizuchi/ishizuchisyotyu.html
◎石鎚小・中学校雪の石鎚小・中学校(昭和40年頃)【石鎚小学校】明治41年 千足山村に「千足山尋常小学校」(途中の川)が設置され、土居、郷、黒川、戸石に分教場を置く大正12年 本校を郷に移し「千足山尋常高等小学校」となる昭和4年 本校を現在の場所に移し、土居、黒川分教場を廃止昭和 5年 本校統一記念式挙行昭和22年 「千足小学校」となる昭和30年 「石鎚小学校」となる昭和52年 閉校【石鎚中学校】昭和22年 「千足中学校」開校昭和26年 「石鎚中学校」となる昭和52年 閉校千足中学校(のちの石鎚中学校)落成式(昭和22年)合併記念式・当時の石鎚村全世帯(昭和30年10月)石鎚小・中学校運動会(昭和40年)石鎚小・中学校運動会(昭和40年)石鎚中学校(昭和45年頃)石鎚小・中学校閉校式(昭和52年3月)想い出の校舎へ戻る
校長室より - 松山市立雄郡小学校
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https://yugun-e.esnet.ed.jp/blogs/blog_entries/view/38/7ffa1098de8d52c2e471e7c9b5f44925?frame_id=89
 関サカエさんは、神風特攻隊第1号と言われる、西条市出身の「関行男」大尉(※戦死後2階級特進で中佐となる)のお母さまです。   関大尉は、敗戦の色が濃くなった時期のレイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特別攻撃を行い、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したことで、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰されます
お気楽アルプ日記 vol.2 : 関サカエさん 終焉の地 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/danke_323/archives/1646340.html
石鎚小学校跡の門柱の横に、なにやら看板が立っている・・・・?そこにはなんと・・・!関サカエさんの終焉の地それを知らせる看板が立っていた!関サカエさんは、大東亜戦争にて、23歳の若さで人間爆弾として敵の母艦に体当たりして散っていた神風特攻隊、関行男氏のご母堂様。
軍神の母: 時は移り・・
http://nakazen.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-5b66.html
軍神の母と尊敬の目を集めていたサカエは、逆に冷たい視線にさらされる。行商の生活に行き詰まっていたサカエを、山奥の石鎚小・中学校の用務員に呼び寄せてくれる人がいた。・・・山の学校へ来て6年目、石鎚おろしの風の冷たい11月、教員たちに頼まれた買い物の途中、サカエは雑貨屋の店頭で胸を押さえて、倒れた。かつぎ込まれた用務員の部屋で、のぞき込む校長夫妻に・・・最後の言葉をつぶやく。「行男の墓をたててやって下さい」・・・これで、関家は断絶した。貧しい母は、国のために散華した息子の墓すら、建てられなかった。息子が国を思うほど、国は息子を思ってくれなかったのである。」