内灘米軍試射場は石川県河北郡内灘町(旧・内灘村)の軍事遺構。 1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争...

内灘米軍試射場

内灘米軍試射場 概要・歴史

内灘米軍試射場は石川県河北郡内灘町(旧・内灘村)の軍事遺構。 1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争...

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内灘米軍試射場
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石川県河北郡内灘町に地元民にも忘れられている歴史がある。内灘町には米軍の射撃場が存在したのだ。その事実を知っている人は少ない。1952年朝鮮戦争のため砲弾の需要が高まり日本国内のメーカーから納入される砲弾の性能を検査するため射撃場が必要だった。内灘砂丘が砲弾試験場として最適と判断され決定された。
http://discoverjunk.web.fc2.com/kouzoutop/utinadaop/index.htm
旧米軍内灘試射場着弾地観測所跡「内灘闘争」というのをご存じですか?これは、1952年(昭和27年)米軍による内灘砂丘の接収、砲弾の試射場化に反対して行われた運動です。反対派村民は連日むしろ旗を持ってデモや座り込みを続け、全国から支援者が集まった。またその一方で条件賛成派の村民は大根布(おおねぶ)愛村同志会を結成、反対派との間で激しい攻防が繰り広げられました。「内灘闘争」につきましては下記のサイトにて詳しく紹介されています。読売新聞北陸発・お正月特集「いしかわ時間旅行2000」草の根の女たちのあゆみ 内灘米軍基地反対を闘ったおかかたちさて、試射場とは、米軍が朝鮮戦争で使う砲弾、弾薬を日本の企業に発注し、その実射テストのために内灘砂丘が米軍に接収され、兵舎や砲座、弾薬庫などが建てられました。昭和32年に砂丘が返還された後はその施設は取り壊され、現在は2ヶ所着弾地観測所が今でもアカシア林の中でひっそりと残されています。それでは内灘闘争の遺産とも言える着弾地観測場をご覧下さい。散策路が整備されていると聞いていて、看板を頼りに行ってみたところ草が鬱そうと茂る荒れ地のままでした。そこを暫く歩いていると見えてきました。なんと、これほど荒れ果て見る人がいないと思っていたのに、新しく立派な説明書きの看板がありました。昭和32年に試射場が廃止されて以来風雪に耐え今も此処に佇んでいます。今では自然に溶け込んでいるような感じがします。年月の長さを感じます。しかし、なにかしら落ち着く感じがしました。海側に面したところはトーチカ状の形をしています。権現守海水浴場方面を目標に射撃し、海岸に作られた標的に当たるか、爆発するか、この分厚いコンクリート製のトーチカの狭い窓から観測していたのです。今は、風雨に晒されて壁も剥がれてきていました。さて、それでは中に入ってみることにします。中はがらんどうで何もない空間でした。細くて狭い覗き窓です。まあ、爆風と砂塵の影響を受けるのでこれで良いのですが。覗き窓から海岸をのぞみます。当時の米兵に想いを馳せて・・・トーチカの上からのぞみます。今でこそ植林され緑多い景色なのですが、かつてはこの一面すべてが砂丘地帯でした。あの内灘闘争から早いもので半世紀が過ぎようとしています。戻る
https://tsutotsuto.seesaa.net/article/202001article_5.html
米軍試射場 射撃指揮所一九五三年(昭和二八年)内灘砂丘は、米軍が日本の工場に発注した砲弾の試射場として接収され、この「射撃指揮所」を含め、周辺には兵舎、砲座、弾薬庫等が建てられた。当時、村民の生活を支えてきた地引網の漁場が奪われたこと、日本の各地で起きていた基地問題が心配されることなどから村民たちは、反対運動に立ちあがった。全国的な支援のもとで「金は一年、土地は万年」のムシロ旗を掲げて、デモや試射場入口と場内の権現森での座り込みを続けるなど、わが国での初の軍事基地反対闘争を展開した。こうして日本海沿岸の一漁村は「世界のウチナダ」として脚光を浴びた。一九五七年(昭和三ニ年)米軍の使用が打ち切られ、美しい砂丘は、再び静けさを取り戻した。 内灘町
https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=5328
まちの道路には「〇〇通り」といった愛称、通称がついているケースがありますが、内灘町向粟崎の海浜千鳥台交差点の近くに「鉄板道路」の標識が立つ道路があります。この交差点付近から内灘海岸までは、昭和27年から32年まで米軍の砲弾を運ぶトラックの臨時輸送路として砂地に穴の開いた鉄板を敷設しました。
https://tsutotsuto.seesaa.net/article/201209article_75.html
内灘砂丘は鳥取砂丘に次ぐ距離・面積を誇る砂丘地帯です。そんな砂丘地の町(当時は内灘村)で起こった「内灘闘争」をご存知でしょうか?昭和25年に起こった朝鮮戦争により参戦した米軍は軍需物資・砲弾の補充に迫られ、日本国内で製造した特需砲弾使用の実験試射場が必要になり、当時の吉田内閣に対して日米安保条約を盾に演習場の接収を要求しました。候補は静岡の御前崎・石川の内灘でした。
http://neonats.blog.fc2.com/blog-entry-302.html
この建物は昭和28年内灘砂丘が米軍の特需砲弾試射場として使用されていた時、発射された砲弾が目標への的中率と爆発、不発の確認を行った着弾地観測所である。通称O・P(オペレーションポスト)と呼ばれ見晴しの良い丘の上に立てられたものであり、昭和32年(1957年)1月まで使用されていた。内灘町
https://niwakanegon.blog.jp/archives/56354019.html
今回は初の戦争遺跡…というより戦争が終わった後にできたものなので正確には戦争遺構ではありませんが。去年の夏に石川県の内灘町で廃線跡を見に行ったのですが、そのときに存在を知ったのがこの着弾地観測所です。→北陸鉄道・浅野川線第二次世界大戦後の1953年に、米軍が砲弾の性能を試すための場として内灘町の砂丘地帯に試射場を作ったのですが、その時使われた砲弾を確認するための施設が今回のお目当てです。この試射場として土地が接収される際の地元住民の反対運動はかなりの規模だったようで、内灘闘争として今も語り継がれています。
https://ameblo.jp/honjo207/entry-12621077699.html
 内灘(うちなだ)は、石川県河北郡の6村(向粟崎村、大根布村、宮坂村、黒津船地村、西荒屋村、室村)が合併した村(のち内灘町)で、金沢市に隣接しています。ここには、今も米軍砲弾の射撃指揮所(千鳥台)や着弾観測所(宮坂、西荒屋)などの建造物遺跡が残っています。先日(9月22日、24日、27日)、久しぶり、インターネットの地図を頼りに、マイカーで現地を訪ね、それらの遺跡をデジカメに収めました。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1557905/spot/659308/
試射場(現内灘海水浴場)から発射された砲弾の的中率や爆発・不発などを確認したコンクリート製の観測所、内灘闘争の歴史を今に残す施設です。訪れる人も少なく、周囲は草木に囲まれすこしさびしいところです。建物もだいぶ朽ちてきていますが十分にそれと分かります。内灘の歴史をもっと知りたい方は近くにある歴史民族資料館「風と砂の館」へもどうぞ。住所: 石川県河北郡内灘町宮坂ぬ 着弾地観測所
http://g4.cocolog-nifty.com/sora/2012/04/2012414-sat-eda.html
内灘海水浴場から見た、鉄板道路。内灘海水浴場にある、射撃指揮所跡。現在は、海水浴場の監視棟となっている。射撃指揮所から弾着方面を見る。携帯アンテナタワーのところに宮坂の弾着地観測所跡がある。