八総鉱山 関連ブログ・参考リンク
http://homepage3.nifty.com/rurounotami/moku_yasoh.htm
田島町立 八総鉱山小学校 八総鉱山は44年に閉山。銅、鉛、亜鉛、硫化鉄などを産出していた。 最盛期は昭和30年代で、八総鉱山の人口は2千人を越えた。 その鉱山小学校は閉山2年後の昭和46年に廃校。 (参考HP) "八総鉱山小学校"のページツ黴
http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/8sou/8sou.html
八総鉱山福島県南会津郡田島町・館岩村八総鉱山は、徳川時代より採掘されており本格的には昭和25年~44年まで20年間にわたり住友金属鉱山が八総鉱山として操業した、田島町側に通洞坑を設け選鉱場を設置し銅、鉛、亜鉛、硫化鉄を浮選方式で日産500トン処理20年間で粗鉱
http://blog.livedoor.jp/minami_aizu/archives/52141464.html
南会津町滝原の八総鉱山跡にある田島町立八総鉱山小学校。その八総鉱山小学校が遂に解体されてしまいました。八総鉱山は南会津町滝原(田島地区)から南会津町八総(舘岩地区)の間にあった鉱山で、江戸時代末期には既に採掘されていた記録があるので驚きです。最初は館岩側の旧八
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/07.Fukushima/Tajima_Yaso.html
※田島町・舘岩村ページ共通 ◆八総(やそう)鉱山地形図:荒海山/糸沢離村の背景:産業の衰退訪問:2023年6月 荒海山(あらかいざん)の北尾根の東西に所在する鉱山。大字八総の南東部、戸坪沢支流にあった旧八総鉱山と、大字滝原(たきのはら)の南西部、荒海川(阿賀(あが)川)上流部にあった旧滝ノ原鉱山に分かれる。銅のほか鉛・亜鉛・硫化鉄を産出した。 滝原側には大規模な鉱山街が形成されていたが、八総側の住居の有無は未確認。 町史によると、鉱山の大まかな沿革は以下のとおり。幕末より、滝ノ原村(田島町)と岩下村(舘岩村)の境界にまたがる荒海山中では、銅・鉛の鉱脈が発見され、山師による試掘が行われていた。しかし小資本のため発展を見せなかった。明治11年古河市兵衛が鉱業権を取得。同18年以降休山。明治27年、田野元次郎が銅鉱の採掘権を取得。同34年、田野氏が中沢友一郎を採掘共同人として改めて採掘権を登録。この頃までは開発の対象は舘岩村八総であった。明治39年、池上仲三郎が田野・中沢両氏より採掘権を譲渡される。明治42年に滝ノ原の鉱区が加わり、池上氏の時代より滝原側の開発が開始した。大正期に入り、第一次世界大戦により鉱産物需要が高まったが、戦局が終熄に向かうと鉱産物の価格は下落。当鉱山でも、大正7年の産出を最後に休山状態となる。昭和3年、採掘権は池上氏より久原鉱業株式会社(日本産業株式会社)に贈与。鉱山部門を独立させ設立した日本鉱業株式会社に採掘権が移った。大正末期以降は休山状態であったが、太平洋戦争の勃発により銅の軍需が急増。この頃滝ノ原の開発が本格化する。昭和17年、採掘権は日満鉱業株式会社に譲渡。終戦により休山。この時代、滝ノ原鉱山の開発が中心で八総鉱山は休山のままであった。昭和24年9月、井華鉱業株式会社(のちの住友金属鉱山)が八総鉱山・滝ノ原鉱山の採掘権を取得。同25年5月、井華鉱業の金属部門が独立した別子鉱業株式会社に採掘権を移す。同27年6月、住友金属鉱山株式会社が採掘権者となる。昭和25年6月には開発に着手。有望な鉱床が次々と発見される。 昭...会津町八総形態:谷沿い標高:約950m?(建物表記付近) 写真1 平坦地(建物跡?)写真2 建物跡写真3 写真2の遺構写真4 茶碗写真5 道写真6 ズリ ≪田島町≫※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「糸澤」(昭和36.1)を使用したものである所在:南会津町滝原形態:川沿いに家屋や施設が集まる標高:約750~820m 写真7 グラウンド(住宅群跡)(以下清瀬)写真8 釣り堀施設(住宅群跡)写真9 住宅群跡(以下笹原)写真10 同写真11 遺構写真12 建物跡付近写真13 電柱写真14 建物跡写真15 付近の「釜滝」(荒海川)写真16 右岸より朝日ヶ丘を見る。橋梁は旭(あさひ)橋(河川の銘板は阿賀川とある)写真17 写真16付近の看板。野外教育センターの時代のものか写真18 学校正門(以下朝日ヶ丘)写真19 校舎跡の一部写真20 水道と整地ローラー写真21 何かの建物写真22 炊事場写真23 平坦地写真24 外灯写真25 遺構写真26 橋の跡(以下末広)写真27 住宅群跡写真28 同写真29 建物跡の遺構写真30 住宅群跡写真31 遺構写真32 遺構写真33 遺構写真34 住宅群跡写真35 道(手前)と住宅群跡の平坦地写真36 遺構写真37 橋の跡。末広から対岸を見る写真38 対岸より伊勢浜を望む(以下伊勢浜)写真39 建物跡写真40 同写真41 同写真42 浴場跡?写真43 建物跡写真44 焼却炉?写真45 遺構写真46 建物跡写真47 同写真48 道写真49 道路沿いの風景(以下住吉)写真50 遺構写真51 遺構写真52 遺構写真53 建物跡写真54 住宅群跡写真55 同写真56 住宅の遺構写真57 同写真58 住宅地の谷写真59 消火栓写真60 遺構写真61 何かの遺構写真62 住吉より大場方面を望む。橋梁は宮前橋(以下大場)写真63 神社。石段写真64 同。鳥居跡?写真65 同。社殿跡写真66 中和処理施設(事業所跡地区)
http://biisuke0822.blog.fc2.com/blog-entry-3905.html
糸沢分校をあとにして、向かった先は......................旧・田島町立 八総鉱山小学校。八総鉱山小学校は、その名が示す通り、八総鉱山に在った小学校です。江戸時代から銅、鉛、亜鉛、硫化鉄を採掘していた鉱山で本格的な採掘が始まったのは、住友金属鉱山が八総鉱山として操業した昭和25年。ピーク時には従業員は545人。八総鉱山の人口は2328人を数え、その子供たちの為に設営されたのが八総小学校です。昭和31年に校舎が建設され、八総小学校としての歴史がスタートしたようですが八総鉱山が昭和44年に操業を停止して閉山となると2年後の昭和46年に廃校となってしまいました。廃校後、その敷地は会津高原オートキャンプ場、さらに、その後に『あらかい健康キャンプ村』として活用されていましたが、校舎は2011年に一部を残し、解体されてしまったそうです。雑草の中、ココが学校跡地だと言わんばかりに存在感を示す正門跡。
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田島町立八総鉱山小学校八総鉱山は44年に閉山。銅、鉛、亜鉛、硫化鉄などを産出していた。最盛期は昭和30年代で、八総鉱山の人口は2千人を越えた。その鉱山小学校は閉山2年後の昭和46年に廃校。(参考HP)"八総鉱山小学校"のページ草原と化したグランド。現在はオートキャンプ場として利用されている様だが訪れた時はシーズン中にもかかわらず、その気配を感じなかった。[憧憬の刻へ][ホームへ]※当HP内全ての画像の無断転載を禁じます。
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