http://heyaneko.web.fc2.com/zsw13.html
10/10/2010 十津川村大渡,錨 大渡,錨はともに村影さんのWebで知った廃校廃村で,村影さんは二度目となるので,村影さんに案内していただく形となりました。 葛川小学校神下分校はへき地等級3級,児童数43名(S.34),明治6年開校,昭和42年閉校。村 なお,分校名の神下(Kouka)は,大渡,大杉などを含む大字の名前で,十津川村ではおおむね大字はジゲ(地下),小字はバン(番)もしくはキレ(切)と呼ぶとのことです。
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/29.Nara/Totsukawa_Ikari.html
◆錨(いかり)※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「龍神」(昭和28.7)を使用したものである所在:十津川村出谷(でたに)地形図:重里/龍神アクセント:イカリ形態:稜線上とその下の斜面に家屋が少数集まる標高:稜線上・約600m 斜面・約500m(出谷小原バス停は約250m)訪問:2008年11月・2010年10月 上湯(かみゆ)川・松柱(まつばしら)谷に挟まれた山の稜線上とその南斜面にある。古い地図では1、2軒の建物と、稜線上に学校が見られる。七ッ森より約1.0km、松柱集落内の菊屋前バス停より約1.3km、県道735号より小原(おはら)集落を経由し約2.0kmとなっている。 学校跡地には村教育委員会が建てた記念碑が立っている(写真1)。碑によると、学校は出谷小学校及び第六中学校出谷分校。碑がある場所はおそらく校庭で、道を挟んで反対側には建物の基礎のような遺構が見られる。ほか防火水槽のようなものも見られた。学校はかなり不便な場所にあるが、位置的には出谷の中心なので都合がよかったのだろう。稜線上までには各方面から道がつながっている。『十津川学校史』によると、沿革は以下のとおり(抜萃・一部改変)。 明治8.3 殿井学校・中番学校が合併し大字出谷字錨728の3番地に校舎を建築、出谷小学校として発足。8小字内の児童を収容 明治20.4 出谷尋常小学校と改称 昭和16.4 出谷国民学校と改称 昭和22.4 出谷小学校と改称。第六中学校出谷分校を併設 昭和24.1 学校給食場を建築 昭和30.8 水道工事完成。以前は児童生徒が当番制で学校および住宅用の水汲みをしてきた 昭和39.4 学級数5・教員6名となる(複式学級1、他は単式) 昭和39.5 中学校分離・廃校 昭和40.4 全学年単式学級となる 昭和44.4 西川第二小学校出谷校舎と改称 昭和45.3 統合により廃校 学校の隣の一段下がった場所には民家のような建物がある(写真3)。地元の方の話では民家は2軒ということなので(この2軒は南斜面にある)、教員の宿舎か何かだろうか。 ここから小原集落に向かって斜面を降りていくと、別の家屋群が見られる。倒潰家屋が1軒と(写真5)、納屋のみが残る敷地が1箇所(写真8)。付近一帯は斜面だが、石垣があり畑の跡と思われる。尾根筋に家が建っているとはいえ、かなりの急斜面。 地元の方の話では、無人になったのは昭和50年代くらい。1軒は小壁(こかべ)集落に移転した。校区は出谷一円で、松柱や小松辿からも子供が通っていた。 なお崩ノ原の南の尾根から若山―七ッ森 ―錨―真砂瀬(まなごぜ)を結ぶ稜線の道は、古い地図では村道として描かれている。 写真1 記念碑写真2 バイク写真3 廃屋写真4 廃屋にて写真5 倒潰家屋写真6 写真5・納屋写真7 写真5・浴室写真8 納屋