小佐谷弾丸列車は兵庫県養父市にあった森林軌道の通称。 妙見山から伐採した木材を八鹿まで運び出すた...

妙見山小佐谷弾丸列車

妙見山小佐谷弾丸列車 概要・歴史

小佐谷弾丸列車は兵庫県養父市にあった森林軌道の通称。 妙見山から伐採した木材を八鹿まで運び出すた...

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おおよそのルート
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近くのスポット

妙見山小佐谷弾丸列車 関連ブログ・参考リンク

http://blowinthewind.net/haikyo/kunisaki/kunisaki.htm
2011年9月4日 六郷満山の仏教文化で栄えた国東半島で本格的な道路整備が始まったのは明治26年 (1893)である。 浜ノ上隧道 明治34 高田往還にある。 隧道と前後の山道は国東市道 赤根本線という市道で市が管理する現役の道であるが、実態は廃道となっている。 青い線が隧道で、走水観音から歩きやすい道を約3分で辿り着く。
http://mtrykore.selfip.com/tqf/110925/110925.html
2011年9月25日 養父市にある但馬妙見山で明治時代に活躍した材木運搬列車「弾丸列車」の廃線を 辿った記録です。 しばらく進むとその農道は沢沿いの山道となり、更に進むと加瀬尾 から伸びる林道になりました。 歩きながら「おじいさんはこんな道を使って
http://zitabata01jun.blog118.fc2.com/blog-entry-214.html
2011年10月1日 さて、その運搬方法ですが、今では山の奥まで林道が通じ、トラックで運ぶのが当たり前 となっていますが、林道の . 帰ってから調べて判ったのですが、この弾丸列車を世に 送ったのは、この付近の妙見山一帯を所有していた寺院だったようです。 明治の 出来事 小佐谷の弾丸列車 廃道・廃線 | 0 trackback | 2 comment | edit
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/tanigumi_s.htm
JR小浜線、国鉄舞鶴港線、北近畿タンゴ鉄道、妙見山小佐谷弾丸列車軌道. JR山陰線 余部鉄橋、智頭 2011/09/17撮影:岩舟山麓にある廃線跡 岩舟人車鉄道跡1 岩舟人 車鉄道跡2 岩舟人車鉄道跡3 岩舟人車鉄道跡4 岩舟人車鉄道跡5. □JR両毛線
http://yamaaso.cranky.jp/2011/dangan.html
妙見山 小佐谷弾丸列車軌道はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1『栃本』、『関宮』を参照していただくようお願いいたします。2011. 9.25.  日曜日  晴れ  気温 ふつうこれまで何度か但馬妙見山に登ったがそのつど新しい発見があった。今回はその一つである 「小佐谷の弾丸列車」というものです。が、正直言うとあまり資料が無かったので詳細はよくわかっていません。ようするに妙見杉を八鹿まで降ろすのに造られた森林鉄道ということです。兵庫宍粟にあった 森林鉄道は初期(大正前期)は人力とか牛馬で引っ張っていたそうだが、やがてそれはSLになる。 SLと言ってもD51のようなものではなく、小型で分解して山の上まで運び、そこでまた組み立てるというものらしい。 遊園地などにあるものを想像してしまうが案外そんなものかもしれない。村の入り口にある石仏を見る日畑谷遭難者碑とあるところがこの「小佐谷の弾丸列車」には動車は無く、木材を積んだ貨車を重力に任せて レール上を下らせるのだ。そのままだと脱線してしまうので人間がブレーキを掛けながら スピードを調整するのだった。あまりにブレーキが強すぎると途中で止まってしまうし、緩いと 脱線事故を起こしてしまう。なんとも危なげな仕組みだがそういうものが大正時代にあったという。その軌道跡が残っているというので探しに行ってみよう。いざというとき頼りになるTQFさん、おじいさんが 若い頃八鹿の青年学校にいたという作畑ガール、廃道と自転車で私と繋がりのあるK山さんの変人四人組で行くべし。 村の入り口にある遭難碑は弾丸列車の事故のものだと聞いたことがあるのでみんなに紹介する。 ここはゆるいカーブになっているが、当時は鋭角なカーブだったらしく、ここで脱線して横の淵で亡くなったという。日畑に一カ所だけ駐車出来るポイントがあるのでそこに車を置いていよいよ出発。8時50分。 集落の中央を流れる日畑川にある橋には『妙見登山道3.5km 加瀬尾1.5km』の標識があって、 今回は加瀬尾へ登る。横手の田圃で仕事をしているおじさんにいろいろと尋ねてみたがほとんど収穫はなかった。加瀬尾に向かう日畑と加瀬尾を結...決する。我々もそうだが、それまでこのことを調べてきた人すべてが『弾丸列車』というものありきというのが 前提だったので、 それが無かったとは考えられなかったためにああいう資料になったのだろう。そう考えると『E』から三つ目のスイッチバックまでは無かったことになる。 『E』から南土場に一旦材木を降ろし、そこから改めて今度はトロッコによる運搬がされた。 それが言うところの『弾丸列車』なのだろう。私の導き出した結論は、私の目と耳と足と頭で出たもので、正しいかどうかわわかりません。 ひょっとして大正時代の写真か文献などで、実際に車輪あるトロッコであそこを下ったという証拠があれば 話は違ってきます。川を飛び越えて休み堂へ向かうさて、そのときは頭が混乱したまま弾丸列車軌道を離れる。川を飛び越えればそこは妙見の参道だ。 とりあえずそれを登って休み堂で食事をする。 今日の後半はこの休み堂の下にある分岐から『N』の峠を目指す。木が倒れている磨崖仏石の道標横から峠へ向かう道がある。もちろんこれは観音寺という所から妙見へお参りするための参道だ。 曲がるとすぐに不動明王の磨崖仏がある。みんなに見てもらいたい物だったが、上の木が倒れ込んでいた。 幸いに傷んではいなかったが、こういうのは誰が管理するべきものだろうか?名草神社?日光院?道が消失違うルートで下ってみる不動を越えて参道を歩くのだが道はどんどん悪くなりやがて崩れ落ちていた。 私とTQFさんで先の様子を探りに行ってみたがさらに悪くなるだけで到底行けそうにない。 しかたなく引き返して違うルートで元来た道を下ってみる。 すると作業小屋があった。この小屋の周辺も耕作地跡なのでそれのための小屋らしい。三柱神社その真下にある坑道どうも今日は中途半端なことばかりが続くようだ。最後は日畑の集落内にある金鉱山跡を探してみよう。 各自勝手にあちこちをうろついている。三柱神社をちょっと下った所にあった。 昔、ここを掘っていたら頭痛やら気分が悪くなったという。きっと神社の真下なので神さまの罰だと思い 途中でやめたという。今回の妙見山 小佐谷弾丸列車軌道の地図は こちら(約105k) でごらんください。それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~山歩きの部屋にもどるホームにもどる
https://deityriver.exblog.jp/16909911/
 「弾丸列車」という存在を知ったのは、先日の但馬妙見山歩きのとき。明治時代に、日光院が、妙見山で育った杉の木を切り出し、八鹿駅まで運ぶために、小佐谷にそって、森林鉄道が走っていたそうです。その列車は、木の重さと傾斜のエネルギーだけ動き、弾丸のように早く駆け下っていたので「小佐谷の弾丸列車」といわれいていたそうです。(くわしくはこちらから) 伯父さんから頂いた但馬妙見の資料に弾丸列車の軌道跡がありましたが、なんか、ちょっとおかしい(適当)です。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken4.htm
妙見山小佐谷弾丸列車軌道歴史の一齣として妙見山に纏わる逸話がある。それは「妙見山小佐谷弾丸列車軌道」である。妙見杉を切出し、それを八鹿駅に運搬するために、小佐谷(日畑村)の山中と小佐川沿に八鹿駅まで軌道が敷設されたという。それは動力を持たないトロッコ程度の軌道と思われ、地元の人々以外には殆ど知られていない軌道のようである。明治5年いわゆる「上地令」が発せられ、日光院所有妙見山山林は上地される。明治32年「国有土地森林原野下戻法」発布、翌年日光院は「妙見山還付の申請」をなす。明治36年還付不可の裁定があるも、直ちに明治政府に行政訴訟を提訴。明治39年行政訴訟は勝訴、妙見山全山が日光院に回復する。明治44年「日光院と東京の大宝正鑑が契約を結ぶ。」(日光院サイト)とある。当然「明治官立名草神社」は妙見山の所有を回復すべく多くの民事訴訟を提訴するも、全て敗訴と云う。