下の茗温泉 概要・歴史
完全崩壊した室牧ホテル
下の茗温泉(したのみょうおんせん)は、富山県富山市(旧国越中国)にあった温泉、温泉施設。
下の茗温泉は1787(天明7)年3月に薬師如来のお告げによって発見されたとの逸話が残り、安政の頃には富山藩主・前田利保が湯治に訪れている。
『わらぢのあと 名勝紀行』(桑田春風、隆文館、1922年)には「湯槽一所、澡室四宇ありて、ともに八尾村の瀬戸與五郎といふ者の所有たり」とある。
1932(昭和7)年に木造3階建ての「渓畔閣」や「緑風園」「静山荘」から成り、渡り廊下で接続された室牧ホテルが建設される。下の茗温泉として言及されているのは、施設名としてはこの室牧ホテルのことになる。詩人の野口雨情も訪れたという。
『日本国勢総攬 : 市町村別 上巻』(帝国公民教育協会、1934年)には「溪畔閣と稱し巖の湯と續きて室牧川畔にあり、明朗幽遼にして奇勝に富む、殊に浴槽に至る渡り廊下は室牧川の上に架け渡し之より渓谷を望む」とあり、当時から渡り廊下が名物だった様子が窺える。
『現代展望・郷土誌』(帝国聯合通信社、1935年)には「室牧ホテルの如き近代的設備」とあり、当時の先端的建築だったことがわかる。
戦後となり、雑誌『宣伝』(綜合宣伝社、1958年9月)には「前田公ゆかりの湯治場」「室牧川の鮎釣りも一興です」の広告があり、渡り廊下の建物写真が掲載されている。
『富山のいで湯』(岡田正二、北日本新聞社出版部、1977年10月)には「右岸に和風三階の渓畔閣と緑風園。対岸に別館静山荘と浴場があり、その間を橋状の廊下がつないでいる」と記されている。
日本秘湯を守る会にも属した一軒宿だったが、1984(昭和59)年4月に一旦閉鎖される。
その後1989(平成元)年頃に薬品会社の保養所となったが、1993(平成5)年に別の経営者が引き継いで温泉を再開したらしい。
消防法により3階が使えなくなるなど、老朽化による不便が重なり、客足が遠のいたこともあって1999(平成11)年に閉業した。
その後急速に劣化が進み、2010年時点でほぼすべての窓が損壊、壁が随所で崩落、入口庇はまるごと地面に崩れ落ち、天井が落下、腐敗により全体が歪んだ状態となっている。
雪害により年々崩壊が進み、2016年時点で半ば廃材の山と化しているのが確認されている。2018年には「多数の瓦礫で本館入場は困難」とされている。
2024年10月時点でも現存するが、本館(右岸にある渓畔閣と緑風園)はエントランス付近が完全に崩壊し、その瓦礫によって接近することができない。
下の茗橋の先の左岸には浴室棟などがあるが、橋を渡った付近は雑木等で立ち居もままならず、その先も道が崩落している。渡った右側にマツダ・ポーターキャブの廃車が1台埋もれているが、近づかないとそれも視認できないほど濃い木々が茂っている。
また同地へアクセスする道も雑草雑木と落石で足場が悪く、途中にトヨタ・マスターエースサーフの初期型らしい廃車がぺちゃんこに潰れて放置されている。