長登銅山 概要・歴史
花の山精錬所跡
長登銅山(ながのぼりどうざん)は山口県美祢市にあった鉱山。秋吉台南東に隣接する。
7世紀末~8世紀初頭から銅などを産出し、奈良時代には東大寺の大仏の銅として利用された可能性が高いことで知られる。
近代に入り、1889(明治22)年に山陰の鉱山王と呼ばれた堀藤十郎礼造が鉱業権を取得、1892(明治25)年より採掘を開始するが十分な品質が得られずに休止。1903(明治36)年に再開され、1905(明治38)年には花の山製錬所が開設される。
明治末期には軌道に乗り、1908(明治41)年には烏帽子竪坑から日本では珍しいコバルト鉱が発見された。この当時、長登銅山の主力坑は奈良時代から鉱山の中心であった大切谷の大切竪坑と烏帽子竪坑であり、主として銅を産出していた。
1919(大正8)年、第一次世界大戦後の銅価格下落に加え、同年7月に集中豪雨により大切竪坑・烏帽子竪坑ともに水没、休山となる。
1932(昭和7)年に烏帽子地区で採掘が再開され、コバルト鉱が採掘された。
戦後は「水溜鉱山」と呼ばれるようになり、一時期活況を見せるも、1960(昭和35)年に湧水により坑道が水没し休山。1962(昭和37)年に正式に閉山となった。
広義の長登銅山に入る花の山西側の「大田鉱山」は明治後半期に隆盛を迎えるが、1912(明治45/大正元)年に坑内が水没し休山。その後、1915(大正4)年に再開するも、明治後半期の隆盛を取り戻すことなく、1956(昭和31)年に閉山となった。
花の山製錬所は伝統的な日本固有の吹床製錬法を採用した製錬所で、跡地は花の山公園として整備されている。
史跡として管理され、複数の坑口が保存されている。
大切谷と呼ばれる小谷とその周囲の斜面地には、古代の銅の採鉱跡・精錬所遺跡などが所在し、大量の精錬滓(からみ)が堆積している。