磯砂鉱山は京都府京丹後市にあった鉱山。 1937(昭和12)年から1938(昭和13)年にかけてマンガン鉱の...

磯砂鉱山

磯砂鉱山 概要・歴史

磯砂鉱山は京都府京丹後市にあった鉱山。 1937(昭和12)年から1938(昭和13)年にかけてマンガン鉱の...

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磯砂鉱山
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コウモリの探索目的で京都府京丹後市峰山町にあった磯砂鉱山跡に行ってみた。坑道入り口は残っているが、立入禁止のため閉塞されている。ほぼ完全に密閉されているので、ほかに坑口がなければコウモリはダメだろう。付近をかなり広範囲に踏査したがほかの坑口は見つからず。坑口の
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/unkonshi21/bangaihen-kanehoriki1.html
index磯砂鉱山「金ほうり(放)山」記京都府京丹後市峰山町鱒留大成(1)磯砂鉱山の歴史2005年4月UP 昭和12,3年の頃、峰山駅前の戸田梅吉氏が、大呂附近のペグマタイト中のマンガン鉱を探査したのが始まりです。その折り、フェルグソン石が発見されましたが、一塊にして350gという既知ものとは桁違いに大きいものもありました。そして、バラ輝石が発見され、戸田氏の言うマンガン鉱とは、バラ輝石の酸化分解物と考えられます。その後、このバラ輝石はパイロクスマンガン石と決定されました。 戦時中、ここのペグマタイトが採掘されたため、フェルグソン石は著しく少くなりましたが、その代りに変種ジルコンの産出が多くなり、径3cmに達する赤褐色の晶群が多く出ました。おそらく、ここまでが大呂鉱山だったと思われます。 その後、鉱業権者が綾部市のK氏所有となり、大成鉱山と称したようです。昭和30年頃、放射能の強烈な変種ジルコンが発見され、これを「大呂石」と呼んでいましたが、独立の鉱物ではなく、ジルコン中に閃ウラン鉱等の鉱物の微粒が包含されている物で、新鉱物とはなりませんでした。 そして、1977年から2年間、磯砂鉱山と称して、珪石を採掘をしました。この時に、トルトベイト石などの珍しい鉱物が多産しました。磯砂鉱山の露頭と坑口(2)金ほうり山の意味 2004年に市町村合併のため、中郡峰山町から京丹後市に変わりました。大呂というのは、旧地名で、現在は大路が使われています(注参照)。しかし、鉱山の所在地は、大路の奥の大成地内であり、大呂鉱山、大成鉱山とも称されました。その後、磯砂山の麓にあったため、磯砂鉱山と称しました。 さて、この鉱山を地元では「金ほうり(放)山」と称しています。何故なら、この鉱山に資金をつぎ込んでも、誰一人儲けた者がいなかったからです。本来なら、「金堀山」とすべきところを、「金ほうり山」とは、うまく言った物です。この山で、金儲けを企んだ人々を、地元では冷めた目で見ていたのです。(3)金ほうり記 大成鉱山のK氏は、おそらくは採掘を目的とはせず、鉱山の転売を目論ん...後、この石の小指の先ほどの欠片を拾ったF君などによって、フルオセル石やフッ化セシウム石等の、本邦初産鉱物が発見されたのでした。本当に惜しいことをしました。この経験から、鑑定を依頼するときは、資料の一部を提供することにした次第です。 そして、ここから、これらの鉱物の争奪戦が始まったのす。T氏の家へ、鉱物マニアが押し掛けたのです。ある人は、トルトベイト石の第一発見者の証明書と引き替えに、良標本を手に入れました。他にも、ブラジル産の紫水晶やトパーズ等と交換をした人もいました。どちらにしても、数百円程度の標本を、宝物と交換する、詐欺まがいの手を使ったのです。十万円以上の値を付けた人もいましたが、その人には渡りませんでした。ついに騙されたことに気の付いたT氏は、それ以来、手放さなくなってしまいました。 マニアは、それでも諦めません。そして、最後の手段をとったのです。T氏の留守宅にまで侵入し、残りの標本の殆どを盗み出してしまったのです。 夢見山は鉱物マニアまでも、夢を売り付け、最後には犯罪者にまでしてしまったのです。そして、今は静かに眠りについています。結局、この山で笑った人は、鉱物マニアとN氏位でしようか。 次ぎに夢を掘り起こす人は誰でしょうか。注 鱒留大呂と大路 鱒留 Masudome は古く(中世以前)は益富 Masutomi と言いました。そして、いつ頃か鱒留になったと言います。益富というと、故益富寿之助博士が頭に浮かぶでしょう。実は博士のご先祖は、この村の出で、西方の安養寺に嫁ぎ、さらに京都に出て、名字を鱒留の古名、つまり益富とされたのだそうです。 大呂と大路は、古文書にはどちらも出てきて、昔から混在していた様です。しかし、昔は大呂の方が優勢であり、近年は大路の方が優勢になってきています。現在、行政では大路を使用しています。どちらを使っても、間違いではないようです。参考文献、HP。   長島乙吉・長島弘三,1960.日本希元素鉱物  京都府レッドデータブック,2002.    http://www.pref.kyoto.jp/intro/21cent/kankyo/rdb/geo/db/soi0007.htmlこのホームページに掲載のイラスト・文章・写真・商標の無断転載を禁じますCloseClose