http://www.urikomail.jp/modan-spot/tankorekisi.html
松沢炭鉱の歴史写)今も坑道口が残る辺り旧九重(くじゅうむら・現新宮市熊野川町)宮井を中心とする通称熊野炭田は、明治初期新宮藩が銅鉱脈を発見したのをきっかけに、土佐の九十九(つくも)商会や、三菱の岩崎弥太郎などが関与、明治20年前後には大きく4つのグループの鉱山
https://ameblo.jp/mementoc/entry-11536272061.html
とついつい、中上健次モードになりますが、今回私が初めて見た場所は新宮から本宮へ車で30分ほど上った場所にある、松沢炭鉱跡地です。熊野の山は石炭、銅、などの鉱脈が走る豊富な鉱物資源の山塊なのだそうです。たくさんの小さな炭鉱があり、明治中期以降近代化に不可欠な石炭を掘っていたのです。こないだ行った松沢炭鉱は小さなものですが、炭鉱の穴の周りというか、斜面にそって住宅が立ち並び、最盛期には会社の慰安設備なども備えたちょっとした集落だったのです。今でも廃屋が並び、またかつて鉱山労働者だった人が、わずかながら周囲に住んでいました。
https://ameblo.jp/mementoc/entry-11538011627.html
熊野歴史ガイドをしている栗林さんが、「おばあさん、ここに住んでるの?」と聞くと「わしはここで働いてた」というのです。昭和五年生まれのオバは、十代のころから男に交じって炭鉱で働き、そのあとは大阪の紡績に行ったと言いました。炭鉱時代は鉱には入らないまでも、ヤエン張ったり、積み下ろしとバリバリに力仕事したんだ、と教えてくれました。旦那さんは、鉱に入って働きやはり肺をやられて病気でなくなったということです。オバは「兄さん戦争で死んで気の毒なのに、墓もよう作らんでほらくってあったで、わしが墓を建てたったんや」と言いました。オバの両親は九州の炭鉱に居てそこから一家でこの松沢炭鉱に来たこと、ここは小さな炭鉱でこのあたりはたくさんの炭鉱があり、こんな山奥でも大勢の人で賑わっていたことなども。
https://www.junposha.com/library/pdf/60107_06.pdf