http://kitanonecokara.matrix.jp/blog/?p=14549
奥に見える摩周パークホテルも浴場施設あたりが崩壊しかかっていて、地震なんかが発生すると、いろいろとやばそう。ホテル丸米の前身、丸米旅館が明治19年に開業したみたいなのだけれど、この建物はいつからのものなのだろうねえ。味があって、ほんとうに残念なところなのだけれど……
http://www.ezorider.com/ezorider_report/top2018/20180615_0619.html
場所を同じくして廃虚ホテル。ほぼ同じ敷地内にある摩周パークホテルの廃虚。切ない気持ちの方が勝ってしまいます。再開か取り壊しか?いずれにしてもお金がかかる。
https://kussharo.blog.fc2.com/blog-entry-1967.html
弟子屈村は明治36年に誕生した。熊牛村(現在の標茶町)から分離して弟子屈外1村戸長役場が弟子屈の街に置かれた。外1村というのは屈斜路村のことで、つまり2つの村が共同で役場を運営していたのだ。当時の人口は2村で616人。弟子屈という名前は、アイヌ語で「ヤナの岸の上」という意味で、上段左の写真のみんなが集まっている場所がそうだった。ここは幕末のころ釧路川が湾曲していて、ヤナのような広い岩盤があり、アイヌの人たちが魚を獲ろうとしても、なかなかとれなかったそうだ。150年前の幕末に幕命で北海道の調査にあたった松浦武四郎が訪れたときに、ここには8戸の人家があっただけだったことが記録に記されている。内地から最初に住み着いたのは、石川県人の本山七衛門で、明治18年(1885年)、ここに本山旅館を開設した。この付近は弟子屈の中心となった。ちょうど硫黄山の採掘の時期だった。上段右は大正時代の本山旅館、その後、摩周パークホテルに発展したが、数年前に閉鎖された。本山の翌年に福山ウメが丸米(マルコメ)旅館を開いた。ここも閉鎖されている。弟子屈村は戦後の昭和22年7月1日、町に昇格した。弟子屈町の人口が一番多かったのは昭和35年、1万3262人だったが、いまは8500人に減っている。とくに平成になってからの弟子屈中心部の衰退がいちじるしい。下段右の写真はかつて映画館があった所。