矢ノ川安全索道(やのこあんぜんさくどう)は三重県尾鷲市にあったロープウェイ。 尾鷲と熊野を結ぶこ...

矢ノ川安全索道

矢ノ川安全索道 概要・歴史

矢ノ川安全索道(やのこあんぜんさくどう)は三重県尾鷲市にあったロープウェイ。 尾鷲と熊野を結ぶこ...

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矢ノ川安全索道
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http://tokinotetsuro.no.coocan.jp/history/003/history_003.htm
 「時の鉄路」TOPへ→    ←三重県鉄道略史TOPへ時の鉄路~ the History of Railways ~第3話 安全索道(紀州自動車索道線)   「矢ノ川峠」この名前をご存じの方は多いはずである。この区間は現在でも多くのトンネルを抜ける、尾鷲-熊野間の難所である。昭和三十四年の紀勢本線全通まで鉄道もなく、未舗装の峠道を国鉄バスが約三時間もかけて走っていた。しかし、それ以前に日本初の本格的ロープーウェイ「安全索道」がこの区間を結んでいたことはあまり知られていない。 国鉄バスは昭和十一年、道路改修の完成を待って運転を開始した。それ以前にも民間会社の乗合自動車が走ったこともある。しかし、明治期に建設された旧道悪路で、雨期には道路が滝のようになり、冬季は凍結や積雪でまったく通行不能だった。そこで考案されたのが、この地方で貨物用に実績のあった、索道を旅客に利用することである。 紀州地方には明治期より木材運搬用索道がたくさんあり、索道はこの地方に適した輸送手段だった。千メートル級の山々が海岸線まで迫っているため、ワイヤーロープによって山から山へ伝っていける索道は、他の交通機関よりも優れていた。これは貨物輸送に限らず、旅客輸送にも同様である。当然この長所を生かさないわけがなかった。こうして昭和二年に尾鷲の大橋から矢ノ川峠付近の小坪までを結ぶ、安全索道が開通した。尾鷲市内から大橋までと、小坪から熊野まではバスの連絡である。 安全索道は日本初の旅客用索道であったが、営業期間が九年間と短い。すでに六十年以上前のことであるため、当時の様子を知る人は多くない。そこで、当時の様子を記したものをご紹介することにする。 「尾鷲から木の本へ行くのには海陸二つの行路があった。海上をポンポン船で黒潮の打寄せる波の上を揺られて行くのと、話の種を残す惧のある人は陸上矢の川峠の険を越すのである。 矢ノ川峠は麓から少し登ったところに索道の起点がある。そこまで尾鷲から自動車で行けた。また、木ノ本(現熊野市)からは峠の頂上まではかろうじて自動車が通じていた。峠の東の斜面は急峻で道とは名ばかりで、車は通らぬのでその所に架空索道がかかっていた。一本線でゴンドラは鉄板製の箱に向かい合って、腰かけうるだけの小さなものであった。係員は夫婦以外の男女を決して一緒には乗せなかったと云う。大抵は自動車連絡の時のみ動かし、間の時はとめていたが、特に電力会社に頼んで動かして貰う事もあった。 電力はどこでもそう豊富という訳でなかったから、時に停電することもあった。そうすると乗っているお客は大騒ぎだ。停電したなと気がついてからでもゴンドラは止らずにずんずん下っていく。鋼索が切れてそのまま落ちて行くのかと肝を冷やしているとその内に止まる。一尺角のガラス窓からそっと下を見ると何百尺とある谷の上に宙釣りだ。檜の木立が庭の杉苔のように遙かに見える。つりさがっている鋼索はただ一本で風が吹けばゆらりゆらりと大きく揺れる。外から鍵がかかっているから出られぬ。声を出しても届かぬ。何分にも外界が非常に静かで騒音がないので、無気味で心細いことは限りなかった。大抵は十分か二十分でまた動き出すのだが、其の間の時間の長いこと、全く初めての人は驚かされた。 峠の頂上は大して眺望と云うものはなかったが、晴れやかな明るい南の国だなあと感じさせた。みんな陽気にはしゃいでいるのを見たときはさっきの停電はいたずらじゃなかったのかと疑いたくなった。矢ノ川峠は話題の多い処である。」-(「紀勢本線全通記念特集」より)安全索道は全長千二百五十四m、標高差六百七十八mで九基の鉄塔支柱に支えられていた。動力は電気モーターで時速五・四キロで進んでいた。当初は二人乗りゴンドラ八台であったが、営業成績が好調のため後にゴンドラは二十五台に増強されている。 安全索道の存在を示す地図(クリックすると拡大)
http://yanoko.blog85.fc2.com/blog-entry-15.html
1927年、昭和2年5月に矢の川安全索道が架設されました。この旅客索道は、尾鷲の二つ木屋地区の大橋のたもとから頂上小坪駅まで全長1,185m、標高差479m、支柱9基、電動機は東京芝浦製作所製の200V電気モーター方式で、20馬力の出力がありました。運行速度は時速約4.5km/h。旅客用二人乗りゴンドラは当初8台、貨物用が2台。営業成績が好調だったためのちに25台に増強されました。布設工事の経費は約7万円を要しました。ゴンドラは赤と白がありました。麓の駅「大橋」(現在の尾鷲プレカット工場)、手前の道は明治二十一年にできた明治道です。この大橋という地名は、駅手前にあった矢の川大橋から由来していると思います。現在はコンクリートの立派な橋ですが,当時の写真から見ると木造の橋のようです。現在の橋の下に昔の橋の残骸がありますが、コンクリートとワイヤーが散乱しています。強度の関係でワイヤーで吊っていたのでしょうか?昭和9年12月号の全国版時刻表によると、乗合自動車の接続に応じて1日3便の運転となっており、所要時間は30分で料金は30銭だった。乗合自動車の連絡時間以外にも、電力会社に頼んで動かしてもらうことがありました。当時の電力事情はよくなく、しばしば停電によりゴンドラが停止することがありました。その場合現在のように外部との連絡ができるわけもなく、ひたすらゴンドラが動き出すのを待つしかありませんでした。ゴンドラは鉄板1枚で作られており、2人が向かい合って座るだけのスペースがある狭いものでした。係員は夫婦以外の男女は決して一緒に乗せなかったようです。単線自動循環式を採用しており、これは1本の支曳索に一定の間隔で搬器がぶら下がる方式で、停留場内では搬器はロープから分離する。したがって乗客の乗降は、搬器を停止させるか微速で進行させながら行われ、停留場間の搬器の速度には影響しません。ゴンドラは2人乗りで、6分間隔に送り出され1時間で上下40人を輸送しました。国内は元より世界でも単線自動循環式を旅客索道に用いたのは、矢の川峠が初めてとされています。
https://www.library.pref.nara.jp/supporter/2022kikaku/sakudo_pdf_panel/31%E2%98%86%E7%9F%A2%E3%83%8E%E5%B7%9D%E7%B4%A2%E9%81%93%EF%BC%881%EF%BC%89.pdf
https://www.mogunobo.com/%E7%9F%A2%E3%83%8E%E5%B7%9D%E5%B3%A0%EF%BC%88%E6%98%8E%E6%B2%BB%E9%81%93%EF%BD%9E%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%81%93%EF%BD%9E%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%81%93%EF%BC%89
小坪駅跡は「矢ノ川安全索道」の跡地です。矢ノ川安全索道は日本初の本格的な旅客用ロープウェイだったそうです。
https://tamotu5050.exblog.jp/21211471/
 きょうは、熊野市文化交流センターで思い出の矢ノ川峠を紹介する写真展が、19日まで開かれており行ってきました。思い出の峠越え安全索道(旅客用ロープウェイ)が、小坪・大橋間に昭和2年、建設し営業開始する。昭和11年10月、鉄道省営バスが、尾鷲・上木本間の営業を開始する。矢ノ川峠をめざす国鉄バスが見える。国鉄バスの遺構、キロポスト。尾鷲駅を起点にキロポスト(距離標)が設置されていた。ループ式の尾鷲隧道。