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陸軍工兵学校陸軍工兵学校の歴史と遺構を紹介します。 取材:森-CHAN 写真撮影:染谷 たけし 文責:森 兵男 陸軍工兵学校とは 陸軍工兵学校は、日本陸軍が創設した工兵教育のための学校である。それは、1919年(大正8年)12月1日に松戸にて開校したが、その創設にあたり、同年4月10日に制定された陸軍工兵学校条例はその後学校令となったが、その主要任務は、以下の通りとされる。(1) 諸種の学校教育を実施してこれを各隊に普及する。(2) 工兵関係学術の調査研究を行い工兵教育の進歩を図る。(3) 工兵用兵器資材の研究試験を行う。(4) 下士官候補者教育の実施。(5) 甲種幹部候補生教育の実施。陸軍工兵学校は、このように陸軍工兵学校条例により開校した日本で唯一の工兵学校である。すでに陸軍には歩兵、騎兵、砲兵などの兵科学校はあったが、第一次大戦を目の当たりにした陸軍は、軍備近代化に伴う工兵関係学術調査研究、工兵用兵器資材の研究試験、その他の関連教育を目的として同校を創設した訳である。工兵学校の学生は全国の部隊から選抜派遣され、下士官候補生1年、甲種学生半年といった教育期間を経て、原隊に復帰し、工兵として各種任務に従事したが、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にいたるまでの27年間、多くの専門教育を受けた工兵を輩出し、松戸はまさに「工兵の街」であった。 工兵学校の設立が他の兵科より遅れた原因は、工兵科出身の参謀総長上原勇作大将が工兵学校はむしろ必要ないという考え方だったためで、その上原参謀総長に対し、イギリスの工兵教育を視察して帰った陸軍省軍務局工兵課長だった宮原国雄大佐(当時)が下士官・士官クラスに近代戦に対応できる知識・技能を身につけるために工兵学校設立を進言、上原参謀総長もこれに同意して、工兵学校設立の運びとなったという。 そもそも工兵は、築城・坑道・交通・渡河といった分野について、他の兵科と協調、要機要点でその技術を集中投入し、敵の攻略、あるいは陣地防御の用に供するものである。その工兵用法は、従来「砲兵の陣地進入を援...「皇太子裕仁親王殿下駐駕所」の石碑> 陸軍工兵学校長若山善太郎少将が書いた碑文を見ると、「天皇陛下 曩ニ 儲位ニ在シマシヽ時畏クモ陸軍工兵学校ニ 行啓アラセ給ヒ ■(一字不明)駕ヲ八柱演習場ニ枉ケテ工兵学校将卒ノ行フ演習ヲ 台覧アラセ給フ時ハ大正十五年十月二十八日演習ハ主トシテ堅固ナル陣地ノ攻撃ニ於ケル工兵ノ動作ヲ練習スル目的ノ下ニ行ハレタ(以下略)」とあり、当日の降雨に服を濡らせて裕仁皇太子は熱心にこの台から演習を見学したと書かれている。これは、昭和天皇裕仁がまだ皇太子であった1926年(大正15年)に八柱演習場で行われた陸軍工兵学校の演習を見るために、ここに立ったということを示す。なお、石碑の台座は1985年(昭和60年)に改修されたもの。但し、改修されたのはその部分だけで、囲いの石材は古く、オリジナルと思われる。 石碑のある場所は新京成みのり台駅の東南、駅から5分ほど歩いた場所にある駐車場にある。この駐車場は靴の量販店の店舗の裏にあたり、周辺は住宅地で、ややわかり難いところにある。新京成みのり台駅の駅の改札口は一つしかないが、その改札口を右に出て踏切を渡ったところにある交差点を右(南)へ進んでしばらく行くと、靴の量販店の店舗が進行方向左に見えて来る。なお、周辺に遺構はないか探したが、境界標石なども見当たらない。新京成みのり台駅の隣駅の八柱駅周辺には陸軍境界標石がいくつもあり、少し離れた森のホール付近にも廃線跡がある。1924年(大正13年)、松戸の陸軍工兵学校から八柱演習場までの軽便路線を工兵学校が敷設したが、その沿線に陸軍境界標石が現存している。 参考文献: 『陸軍工兵学校』 工友会著 (1977) 『稔台ものがたり』 大井藤一郎編著 稔台連合町会 (1995) 『松戸史談』 第41号 「旧陸軍工兵学校門標始末記」 春山善良 (2001) 『昭和の松戸誌』 渡邉幸三郎著 崙書房 (2005) 陸軍工兵学校幹部候補生隊 関連文書 (1940年前後のもの) ほか 陸軍工兵学校と松戸工兵学校の演習工兵学校まで敷かれた鉄道連隊演習線主頁 千葉県の戦争遺跡HP:別窓
http://jshian.jp/moijan/ikou/chiba/ikou-kouheigakkou.htm
陸軍工兵学校跡(千葉県松戸市岩瀬 松戸中央公園、聖徳大学等)旧陸軍工兵学校正門跡現在は松戸中央公園の入口になっているが、門柱と歩哨舎が残っている。門柱を近くで見たところ非常に重厚でしっかりした造りである。「陸軍工兵学校」の表札を掛けた金具がまだ残っている。歩哨舎コンクリート製の歩哨舎。ほぼ完全な形で残っている。旧学校敷地内から正門を見る写真正面は地方検察庁等で、辺り一帯は元は工兵学校の作業場(訓練場)であった。陸軍工兵学校跡碑正門跡を入って左側に進んだところにある。揮毫は「元陸軍中将 宮原國雄」。台座の銘板には次のように記されている。「陸軍工兵学校は主として工兵が技術を研究練磨しその成果を全国各工兵隊の将兵に普及する使命をもって大正八年十二月一日景勝の地ここ相模台上に創立せられ逐年その実績を挙げ大正十五年十月二十八日摂政宮殿下の台臨を始めとして幾多の栄誉に浴せしが昭和二十年戦争の終局とともに光輝ある二十七年の歴史を閉じたり。いま台上往年の面影を留めずよって縁故者あい謀り記念碑を建立して後世にに遺す。 昭和四十二年四月 工友会」「相模台の変遷」松戸市教育委員会が建てた説明板(平成14年4月25日初掲)