https://www.tohoku-walk.com/%E4%BD%9C%E6%A5%AD%E4%B8%AD/%E7%AC%AC146%E9%9C%87%E6%B4%8B%E9%9A%8A%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E8%B7%A1-%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E5%B8%82%E5%AE%AE%E6%88%B8%E5%B3%B6%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F/
宮城県の松島は宮城県を代表する観光地、いえ日本を代表する観光地であり何時も多くの人で賑わっています。ところがその松島の奥に東松島市という風光明媚な素晴らしい街があります。嵯峨渓と呼ばれる奥松島湾の景観、縄文村といった歴史遺産など自然・文化に満ちあふれた私のお気に入りの街です。松島のようなにぎわいがあるわけでもなく、静かな旅を楽しむことができます。第146震洋隊基地跡 さてその東松島の海岸沿いに宮戸島という奥松島湾最大の島があります。島といっても陸続きです。その宮戸島のはずれに、かつて太平洋戦争末期に秘密兵器が開発され、その名残があると聞きました。それは「震洋」とよばれる特攻艇で、米軍の本土上陸に備えて秘密裡に開発されたようです。程なく終戦を迎えたため、結果的にこの宮戸島で作られた震洋の出番はなかったようですが、その基地跡が宮戸島の先に静かに眠っているとのことです。この風光明媚な素晴らしい東松島市にそのような基地跡があると聞き、是非、歴史の爪痕を確かめるべく出向きました。
https://sonohino-kibunshidai.org/matome/special/shinyo_miyatojima.html
震洋(しんよう)とは太平洋戦争末期に旧日本海軍が開発、使用した特攻兵器(小型特攻ボート)です。船内艇首部に炸薬250kgを搭載し搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を行います。ベニヤ板製で構造が簡単であり設計段階から量産を考慮していたので終戦まで6000隻以上も生産されたとされています。基本の1人乗りから2人乗りの指揮官艇、魚雷を装備したものなど幾つかのバリエーションがありました。フィリピン、沖縄諸島、日本本土の太平洋沿岸に配備され、いくばくかの成果は上げたようです。大量生産された震洋には他の特種兵器から転出となった搭乗員のほか機体が無いために余剰となった海軍飛行予科練習生があてがわれました。訓練は主に長崎県大村湾の水雷学校川棚分校と鹿児島県江の浦で行われ全国各地に続々と配置されていきました。日本本土では太平洋沿岸の九州と房総半島が主な配置先で東北は小名浜と松島に配置されたようです。一説によれば津軽海峡に面する青森県風間浦村の甲崎(かぶとさき)も震洋基地だったと考えられています。いずれも防衛司令官の直轄扱いではなく、攻撃の有無、成否、戦果などが部隊ごとの記録となったため正確な記録はほぼ残っていません。全国各地に基地跡とされる場所は多数ありますが確証があるのはわずかです。決戦兵器という性格上、地元住民にも存在を秘匿されていました。そのため宮戸島の震洋基地跡も他の基地跡に酷似していますが、証言が少なく、確実に存在したと断言することはできません。それを踏まえた上で見学するのが適切でしょう。
https://ameblo.jp/yoshidanoharuo/entry-12742534383.html
第146震洋隊宮戸島特攻基地宮城県東松島市宮戸大鮫 陸繋島の宮戸島、旧鮫ヶ浦漁港。東日本震災の津波で被災した倉庫を改修した「鮫ヶ浦水曜日郵便局」があった。この郵便局は震災後に企画された1年間限定のもの。
https://ameblo.jp/tsukisayuru/entry-12836292827.html
第146震洋隊基地跡という表示がありました。 詳しくはわかりませんが戦中、小型艇に爆薬積んで敵艇に体当たりするという特攻兵器(震洋)を作っていてここは、その震洋を格納していた場所だそうです。