南無谷隧道(内房線) 関連ブログ・参考リンク
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn015/namuya/namuya.html
内房線・南無谷トンネル(廃線トンネル)は、全長736m。大正7年(1918年)から内房線( 当時は北条線)のトンネルとして使われていたが、大正12年(1923年)9月1日の関東 大震災で中央部240mが崩落。その他、無数の亀裂や変形を生じた。同年11月28日に
http://www.geocities.jp/kk810558/honsyu10.htm
岬には先に抜ける道がないので、仕方なく戻ってトンネルを通ることにする。写真12の 房総半島を徒歩や自転車で一周するときに一番のネックはこのトンネルであろう。 はっきり言って .. 124 南無谷海岸から大房岬方面を望む 125 海岸に面した小径と木 塀
http://ameblo.jp/chiro-shin-kuro/entry-10935430717.html
南無谷トンネル(旧岩富トンネル)は大正7年8月10日に供用開始したものの,大正12年9月1日の関東大震災でトンネル内部の上部2か所が崩壊。11月28日に復旧しましたが,結局海側に新しいトンネルを掘ってそれが大正15年11月に完成。南無谷トンネルは,供用開始8年で廃止になってしまったのだそうです。
https://goldpuma4.sakura.ne.jp/html/koutsuu/namuya.html
千葉県の近代産業遺跡メインメニュー 交通メニュー 地図(南側坑口) 地図(北側坑口) 新トンネル開通後の新旧の北側坑口(土木学会のホームページより)JR内房線旧南無谷トンネル南房総市富浦町南無谷~小浦建設年 大正7年旧南無谷トンネルは大正7年8月10日に安房勝山~那古船形間が開通した時に供用されました。しかし、大正12年9月1日の 関東大震災で大きな被害を受けました。当時の被害状況を「千葉鉄道管理局史」は、『南無谷トンネルの被害が最大である。上部二ヶ所が 崩壊したためトンネル中央部約800フィート(約244m)が土砂に埋まり、かつトンネル全長にわたって大小無数の亀裂や変形を生じた』と 記しています。復旧工事に手間取り、開通は11月28日までずれ込みました。同トンネルは本格的復旧が困難なため、後日、新しく トンネルを掘削しましたが工事関係者から「南無谷」は「南無阿弥陀仏」に通じるとの意見が出て、「岩富トンネル」と改称されました。 この岩富トンネルは大正15年11月からの供用ですので、旧南無谷トンネルはわずか8年しか使われませんでした。南側坑口北側坑口関東大震災で機関車が横倒しになった旧北条(現館山)機関庫(「房総路」千葉県広報協会より)
https://yamaiga.com/road/r127/main12.html
この廃隧道の正体は内房線の旧線で御座いまして、名前は「南無谷隧道」と申します。廃止されたのは大正15年(当時は国鉄北条線といった)ですが、廃止のきっかけは大正12年の関東大震災による崩壊で、応急的に修復されたものの、抜本的な安全対策として隣接地に現在の岩富隧道が掘り直された経緯があります。したがって、大正7年に木更津線として開通してから、たった8年で廃止された、もののあはれを感じさせる廃隧道なので御座いますよ。
http://tekdiver2.sitemix.jp/html2/arakawas/backn015/namuya/namuya.html
南無谷トンネル内房線・南無谷トンネル(廃線トンネル)は、全長736m。大正7年(1918年)から内房線(当時は北条線)のトンネルとして使われていたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で中央部240mが崩落。その他、無数の亀裂や変形を生じた。同年11月28日にいったん復旧したものの、危険なため、大正15年(1926年)11月から内房線は新ルートを走ることになり、南無谷トンネルは廃止された。ちなみに、新トンネルは南無谷が「南無妙法蓮華経」に通じる★との意見が出たため、岩富トンネルと名付けられた。★「南無妙法蓮華経」ではなくて、「南無阿弥陀仏」が正しいのでは?という指摘がありました。調べたら、後者が正解のようです。ご指摘ありがとうございました。【参考サイト】その1(「千葉の県立博物館」内)その2(「千葉県の近代産業遺跡」内)トンネルへの行き方は下記のサイトを参照させて頂いた(現在はパスがかかっていて見ることができない)。http://boso-railway.blog.ocn.ne.jp/kimidori/2005/05/post_1de2.html【富浦側入り口】「国道127号線の南無谷の押しボタン信号から山側へ入り、ここまで徒歩約15分くらい」という記述を参考にアクセスした。富浦側坑門へのルートは、車とバイクのすれ違いもできないような細い道がメイン。四輪で入るのはかなり勇気がいるかもしれない。集落から離れ、ビニールハウスの間を通り、山の中へ。やがて、左手の「川」の中に立派なレンガ造りのトンネルが現れた。あれが南無谷トンネルだよね?でも。あそこって川なんじゃ?覗き込んでみると、川のように見えるが、ほとんど水が無い。やはり元鉄道線路跡の切り通しらしい。方位磁石で試してみると、トンネルは北向き→向きも間違いなし。だめ押しに通りかがった軽トラの人に訊いてみたら、間違いなく廃線トンネルだそうだ(^_^)切り通しのノリ面は観賞用のソテツ畑として使われていた。かなりの急勾配で、しかもソテツはトゲだらけなので触れると痛い。注意深く足場を確保しながら下に降り、トンネルを覗いてみた。内部には水がたまっているため入ることはできない。出口側の明かりは見えない。ということは、トンネルが曲がっているか、中で崩落してるか、どちらかにちがいない。確かめてみたいが、長靴かウェーダーが必要。このトンネル、レンガ部分に亀裂が入って、草まで生えていた。関東大震災の被害か?国道に戻る途中、旧線跡がどうなっているか見てみたら、切り通し部分がしだいに上昇し、最後は築堤になって現行線と合流していることがわかった。このあたりの線路跡は畑や藪になっており、侵入不能。現行線は高架橋で道路を跨いでいる。近くに車を停めて、高架橋の脇の築堤の上に登っている人がいた。期間限定のD51・南房総号狙いの方々である。私もご一緒させて頂いた。待っていたら、館山側からディーゼルカー出現。編成の最後尾がSLだった。牽引されて走るSLを見たのは初めてなので変な感じ。私たちに対して汽笛鳴らして大サービスなのは嬉しいが、煙が手前に流れてやっぱり変(^_^;)【岩井側入り口】「岩井側の抗口は国道からすぐで、50メートルぐらい入ったところにある。場所は小浦の枇杷直売所の建物脇から入って、現在線の岩富トンネル出てすぐの鉄橋をくぐると、旧線の橋台があり、そこから農家の細い道を登ると、旧線と現在線の合流地点。そこに立つと、現在線のトンネルよりも、更に奥まったところに、旧線トンネルの岩井側抗口が口を開けているのが見える。」と、当該サイトに記述されていた。目印になる「びわ直売所」はここ。岩井側から国道を南下すると目立つ建物である。現行線ガード。旧線の橋台はその奥。木の板の橋を渡って橋台上に出たら、トンネル入り口が見えた。手前のフェンスは隙間が開いていて、一見ウェルカム状態。しかし、その手前の泥ヌタがすごくて、うかつに足を出すと足首までもぐってしまいそうな状態だった。今日は革の登山靴なのだが、これじゃあ歯が立たない。ゴム長が要るよね。ということで、岩井側入り口は遠くから眺めておしまい(残念)橋台上から千葉方面を見たところ。長年の間に木が生え、整地され、鉄道跡の痕跡はなくなっていた。
http://maruho.world.coocan.jp/th2008n16.htm
旧岩富トンネル 旧南無谷トンネルへ 一度自転車で来ているが、信号のポイントを間違えてしまい、ちょっと迷うが、なんとか到着http://video.nifty.com/cs/catalog/video_metadata/catalog_070805023474_1.htm↑8月5日のアプローチ(赤道小町)
https://minkara.carview.co.jp/userid/331167/blog/29513065/
内房線の旧線の隧道。全長736m。大正7年(1918年)から内房線のトンネルとして使われていたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で中央部240mが崩落した。その他にも無数の亀裂や変形を生じた。同年11月28日にいったん復旧したものの、危険なため、大正15年(1926年)11月から内房線は新ルートを走ることになり、南無谷トンネルは廃止された。
https://www.chiba-muse.or.jp/SCIENCE/sanko/pages/065.html
ひがしにほんきゅういわとみとんねる65 JR東日本旧岩富トンネル富山町交通・鉄道・隧道 全長736m,幅4.8m1918(大正7)年旧岩富トンネルは,北条線(改称以前木更津線)の鉄道用トンネル(全長736m)であり,位置は,岩井駅と富浦駅の間にある。1918(大正7)年8月10日に安房勝山から那古船形まで延長された時に供用された。また,北条線の名称は,1919(大正8)年安房北条(現在の館山)まで開通したときに付けられてものであり,1929(昭和4)年に房総循環鉄道が実現するまで続いた1)。調査結果は,写真に示すとおりであり,雑木林に覆われ,トンネルに近づくことができなかったが,写真から判断すると,アーチ環が煉瓦(4重)で,ポータルに石を張った拱渠であり,煉瓦拱渠と言われるものである。坑門側壁は石積み,内部は煉瓦積み。坑門は馬蹄形であり,震災まで使用されていたことが記載されていた。富山町史には,震災の被害として,南無谷トンネル(旧岩富トンネル)の被害は最大であった。上部二カ所の崩壊のため,トンネル中央部240mが土砂に埋まった。復旧は,1923(大正12)年11月28日。西側に1926(大正15)年11月に新トンネル完成2)。と書かれている。最後に内房線の鉄道用トンネルとしては鋸山トンネルに続く2番目に長いトンネルであり,震災がなければ現在も使用されていたものと考えられる。また,国道127号線から50~60mの所にあり,雑木林等を排除すれば新旧の岩富トンネルを比較することもできる。(小山茂)地形図「那古」(略)写真65-1 調査時の(旧)岩富トンネル(1997年) 参考文献1)白土貞夫:ちばの鉄道一世紀,崙書房出版,1996年2)富山町史編纂委員会:富山町史通史編,富山町,1993年