http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/26.Kyoto/Tango_Ichidan.html
所在:京丹後市丹後町一段地形図:丹後平/網野異読:いちのだん形態:山中に家屋が集まる離村の背景:豪雪など標高:約100m 論文「丹後地方における廃村の多発現象と立地環境との関係」によると、明治初期50戸、昭和40年13戸、昭和45年に無人化。
https://tangonotimei.com/doc/tango/ktngc/itidan.html
ふるくは一之段村(いちのだんむら)という。依遅ヶ尾山(540m)の南麓の東西に長い谷間に位置する。竹野川の支流吉永川が西部に源を発して西流。沿岸のわずかな平地に立地する。吉永の奥から一段の方向を見る、この道を↑3㎞ばかり行くとあるよう。「丹後御檀家帳」には「一 吉長の内たん」と、「一 吉長の内いかん谷 家四拾軒斗」とも見えるが、そのどちらかが当地のことと推定されている。慶長検地郷村帳に「吉永村之内一段村」とある。一段村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後享保2年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年幕府領となる。もと吉永村の枝郷で、のち分村独立。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年八木村の大字となる。