沼津市の海龍格納庫 関連ブログ・参考リンク
http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/40210536.html
道の反対側に見えた、一見旧隧道か?と思える穴が開いていたのだった。 http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-. 奥までは 静岡県清水町 大正時代のコンクリ水路橋・千貫樋. 2014/2/16(日) 午前 0:37. 埼玉県飯能市 岩殿観音と周辺探索(後編).
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn015/numazuan/numazua2.html
旧道・県道合流地点を振り返ったところ。左側の家並みはほとんどが廃屋だが、その裏手にもいくつか穴がある。 その先が私が最初にサイトにアップした、島合洞BS脇の大穴。うめちゅうさんからの情報では海龍格納庫だとのこと(沼津市史で確認済み)。 片方のツ黴
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn015/numazuan/numazua3.html
slycrowさん(サイト)の話では、このあたりに部隊の本部があったとのこと。しかし、放水路の工事で、付近の様相は一変し、痕跡すら見つけることができなかった。 「沼津市史」によると、口野には魚雷艇格納庫1、回天格納庫1、巨大な震洋格納庫(31隻格納ツ黴
http://ameblo.jp/bashi-heppoko/entry-11982998307.html
この穴・・・特殊潜航艇海龍の格納庫に使われていたみたいです。 結構知られた場所だったみたい。山の地質的に穴が掘りやすかったのか、隧道や防空壕、伊豆石の石切場跡などが見受けられました。 一応は管理されているらしいので、見学
http://sanpototabi.blog.jp/archives/1077813343.html
マリンパークの先の小さな岬に、特攻兵器震洋の格納庫が残っています。このような横穴式防空壕はこの近辺にいくつも残っていますが、実際に船体を格納していたのか燃料や資材を収納していたのか、その辺は定かでは無い部分もあります。こちらは岬の先に残る壕。こちらには海龍が格納されていたそうです。海龍は元々艦長と操舵士の二名で乗船し、腹部に装着した二発の魚雷を発射して帰還する小型潜水艦でした。しかし戦況の悪化と物資の枯渇から最終的には船首の燃料タンクに爆薬を搭載し、一人で敵艦に体当たりを仕掛ける特攻兵器へと変容して行きます。ちなみに回天は魚雷を改造して人が乗り込み操縦出来るようにしたのに対し、海龍は戦闘機のパーツを流用し水中翼を備えた小型潜水艦です。
https://x.com/urakutenism/status/1857395782296711215
1975(昭和50)年頃に発行された沼津市の郷土資料より、静浦多比にある石丁場跡のカット。ご注目いただきたいのは左下に見える交通標語の看板。50年ほどの間に位置が若干動かされたものの、潮風に耐えながら今も変わらず行き交うクルマを見守り続けています。
http://izutansaku.web.fc2.com/numazu_tabi1.html
沼津市 多比 石丁場隧道群1大きな地図で見るある日GoogleMAPをボーっと眺めていたところ、沼津市内に変な物を見つけました。 左の地図をご覧下さい。なんか隧道があります。もとい、隧道があるように見えます。 地図上ではおおよそ150メートル。でも、何か・・・不自然ですよね?そもそも沼津市民の私が、こんなの知らないんですけど・・・。ちょっと広域MAP。こんな場所にこの長さの隧道を掘る必要があったのでしょうか? というわけで、どんな隧道があるのか見に行ってみました。そんな9月、夏真っ盛り。さて、東側入口に地図通りに向かっているのですが・・・。 明らかにおかしいよ!本当にこっちなの!? こんな坂の奥に150メートルの立派な隧道があるとは・・・ちなみにこの数十メートル前の分岐を右に行けば、 「山さ行がねが」様がレポートされた 山田隧道(旧口野隧道) へ向かう道になります。 アレのすぐ近くということで、こっちにも何かあるんじゃないかと 内心期待して坂道を登ります。汗だくで。・・・・・・え?何かあるけど・・・。まさかコレ?確かに隧道・・・と言っていいのかどうか。 入口は左右2つあり、左は埋没、右は封鎖されているようです。 この平らな断面と長方形の切り口、これは伊豆地方特有の石丁場("伊豆石"を切り出す石切り場) の特徴です。 ということは、山田隧道(旧口野隧道) と同じく石丁場を利用した隧道なのでしょうか?前言撤回、右側は鍵が掛かってないよ!フリーパスだよ! もしかして、どうぞお入り下さいってことでしょうか?(んなわけない)ちゃんと鍵が掛かっていれば、帰る口実になったのに・・・入ってすぐを、フラッシュ無しで撮影した写真です。 入ってすぐでこの暗さです。 ドンキで480円くらいだった、単一電池使用の無駄にでかい懐中電灯をスイッチオン。埋没していた左側入口の裏側です。瓦礫だけでなく廃タイヤなどもある。 どう見ても故意に埋められていますね。 金網を2箇所に設置するコストを節約するために、片方を埋めて封鎖したのでしょうか。さて、奥に進んでいきます。オレンジ色の頼りな... 真似しちゃいけません。私ももうこんなことはしない。ちなみにここは重要なポイント。 この通路は長方形の断面ではなく、丸みを帯びたアーチ型をしています。 石を切り出すのなら、このような形で切り出すことはありません。 つまり、今までのエリアは石を切り出す過程で出来たものでしたが、 この通路は通行のためにわざわざ造られたものだ、ということになります。南北に長い通路の突き当たり、瓦礫の上に朽ちた何かの機械の部品。 そして茶色に錆びた空き缶に混じり、錆びていないKIRINの空き缶があります。 アルミ缶でしょうか。 わざわざこんな所に捨てに来なくてもいいのに・・・。更に何度も曲がり角を通過。何となく西へ向かっていることはわかりますが、 これで分岐があったりトラブルで前後不覚になったら迷いそうだ・・・。天井からぶら下がる、鉄製の蛍光灯器具。 石切りが行われていたのはほぼ戦前、日本で蛍光管が一般に広まったのは戦後なので、 石丁場が後に何かに転用されたのでしょう。今度は大量の木片。元が何だったのかわかりません。 粉々ですが、ここでわざわざ破壊されたのでしょうか? 経年劣化で自然にここまでバラバラになるとは思い難いですが・・・。天井にはケーブル管が現れました。蛍光灯器具に繋がる電線でしょうが、 既に通電していないと思われます。ふとフラッシュ無しで撮影してみた。頼り無さすぎる懐中電灯の灯り。 実はずっとこんな状態で歩いてます。えへへ・・・こ、これは・・・。 ビニール袋に詰まった大量のプラスチックボトルです。 中に危険な薬品が!?なんてこともなく、空っぽの模様。 俗っぽいモノを見てしまい何か興醒めしてしまう。錆びた台車。これも金属部分は茶色に錆びていますが、いつ頃のものなのでしょう。この辺りから、洞内分岐がチラホラ出始める・・・。やばい。 とりあえず西っぽい方向を目指して進みます。 いざとなれば伝家の宝刀「右手法」があるさ!(やめなさい)ぎゃー。いよいよもって新しめのプラスチックケースの山。 近辺の住人が物置として利用しているのでしょう。外だッ!沼津市 多比 石丁場隧道群2 へ続く。沼津市 多比 石丁場隧道群2へ戻る当ページの地図は カシミール3D で作成したものを使用しています。
https://tokyowanyosai.com/yousai/newdata/tabi.html
江浦基地(多比地区)海軍特攻基地砲台と本土決戦基地に戻る多比(たび)地区は、江浦地区の東に隣接する地区である。引渡文書によると回天、震洋の格納壕が設けられていたが、実際の格納はなかったようである。 回天格納壕は、東側に3本と西側に2本の計5本、震洋格納壕は3本掘削されていた。そのほか発電機用の壕も2本造られていたようである。現在、東側の回天格納壕は3本とも現存しているが、1本は崩落が激しい。便宜上、左から1壕、2壕、3壕と称す。発電機壕があった崖はコンクリート擁壁となり場所は特定できない。 回天、震洋格納壕のあたりは、国道改良工事と多比港新護岸化工事のため、当時の崖は一部しか残されておらず、確認できた壕は2本のみである。大きさから回天格納壕と推測しているが、位置的には震洋壕の可能性もある。こちらも左から1壕、2壕と称する。壕の前には震洋用の斜路と回天用の斜路が設けられていたが、震洋用斜路は護岸工事で埋められ、回天用斜路は周辺をコンクリートで固められて物揚げ場に活用されている。回天格納壕1壕同左内部。幅2.5m、高さ3m、奥行19m回天格納壕2号。藪が酷くて近づけず。回天格納壕3壕。開口部が大きく崩落。同左内部。1壕とほぼ同様。回天、震洋格納壕前に造られた多比港新護岸東回天格納壕1壕。貫通しており、反対側は石切場。東回天格納壕2壕。上部に僅かな隙間を残して埋まっている。同左内部岬の先端に残る係船環。基地のためのものかは不明回天、震洋格納壕辺りの現状多比第一隧道。下り側。このページのトップへ禁無断転載 デビット佐藤Copyright 2001 David Sato All right reserved.