筑紫炭鉱は福岡県嘉麻市にあった炭鉱。 篠崎寿三郎が開坑し、1895(明治28)年から採炭。当初は約18万...

筑紫炭鉱

筑紫炭鉱 概要・歴史

筑紫炭鉱は福岡県嘉麻市にあった炭鉱。 篠崎寿三郎が開坑し、1895(明治28)年から採炭。当初は約18万...

筑紫炭鉱 画像

筑紫炭鉱(1975年3月)
©国土地理院

近くのスポット

筑紫炭鉱 ストリートビュー・空中写真

筑紫炭鉱 関連ブログ・参考リンク

http://fine.ap.teacup.com/chikumae_life/200.html
筑紫炭鉱旧山田市(現嘉麻市山田)の奥(筑紫地区)にあった炭鉱鉱区データによると、坑主は個人名義で明治30年代から記録があるが、開坑としては不明。その後坑主は変わって昭和期には野上鉱業→東邦炭鉱→川崎炭鉱→高倉鉱業→野見山鉱業。昭和35年2月?に坑内出水事故で6
http://fine.ap.teacup.com/chikumae_life/435.html
以前の投稿から1年以上経ったある日、帝王さま&宇垣おぴょぴょさまと来た時の画です。投稿忘れてたので今更ですが...(^^;道路から遺構までの距離が近くモジャも比較的少ない跡地前回投稿とダブりますが以下各遺構です多分巻揚機台座結構大きな設備があったんでしょうなあ
http://ameblo.jp/gmgwwmd0/entry-11294431588.html
今日は、筑紫炭鉱をアップしますこちらは、嘉麻市筑紫地区にありますしかし、ふつうに林の中に遺構があるのでビックリしました昔の航空写真にも何やら確認できます(昭和49年の航空写真)林の入口には、林に入るとすぐに、これです台座でしょうか、周辺にも遺構がゴロゴロとポケ
http://www10.tok2.com/home2/kurodaiya/kyushu-html/tikusi/tikusi-1.html
筑紫炭鉱筑紫炭鉱に残る遺構。一見すると坑口のようだが、実際は巻座の跡のようである。近くにも巻座が。トライスターさんにご協力いただき、人間との大きさを比較してみた。少し離れた場所にも。筑紫炭鉱跡では巻座が複数確認できたが、坑口は発見できなかった。巻座跡近くにある
http://tristar.at.webry.info/200908/article_14.html
今回は先日の熊ヶ畑からの続きになります!熊ヶ畑地区で炭鉱めぐりをして山田市の筑紫地区に行きました。この筑紫地区にはかつて筑紫炭鉱と、矢浜炭鉱がありました。ここの鉱区はかつて数鉱区に分かれて鉱業権者は個々別々だったそうです。採掘権が人から人へ目まぐるしく変わりま
https://fukuokaunderplot.com/series/series_sekitan-era/kamiyamada.html
まだ筑紫炭坑(画像ママ)がありますね。画像の芳名碑群をここでは1904(明治37)年から1909(明治42)年の間に建てられたと仮定していますから、筑紫炭鉱の当時の所有者は、篠崎寿三郎になります。彼が筑紫炭鉱の開坑者で1895(明治28)年から採炭しています。当初は約18万坪ほどの鉱区で、この頃の出炭量は約4千トンでした。篠崎時代がそこそこ長く続きますが、1925(大正14)年に橋本信次郎、1933(昭和8)年には野上鉱業合資会社の所有となります。しかし、短い間に所有が、野上鉱業・新東邦炭砿・東邦炭砿・野上鉱業・東邦炭砿と移りながらも、規模が4鉱区約94万坪に拡大しています。戦前の最高出炭量は1935(昭和10)年の約19万トンですが、1944(昭和19)年は約8万6千トンでした。1945(昭和20)年6月、筑紫炭鉱は高倉矢一に経営が変わりますが、一部鉱区は戦後、川崎炭砿株式会社を経てから1950(昭和25)年4月に法人化した高倉砿業株式会社へ移ります。高倉矢一は戦時中には筑紫炭鉱(正式には東邦炭砿株式会社筑紫砿業所)の所長でしたが、戦後は大きく飛躍し、そのまま筑紫炭鉱を引き継いだ他にも川崎町と佐賀県で炭鉱を経営しました。高倉の筑紫炭鉱はといえば、大体4万トンから6万トン台の出炭を続けていたようですが、1954(昭和29)年に坑員の給料を金券(※5)で支払うという、明治時代の圧制ヤマのようなことをして従業員やその家族を困窮させています。これは新聞でも報道されていますので、記事を図書館などで読むことが出来ます。既に経営困難に陥っていたということですから、金券は紙くずと同じ意味になっています。市中の商店だと炭鉱指定店(売ってくれるか怪しいが)以外では通貨としての信用が無くて使えません。しかし、高倉の配給所だと現金同様として使えるのです。とはいえ、配給所に品物があったかどうか。これでは、日々の食事すらまともに食べられない悲惨な状況になっていたはずです。危険な職場で稼いだ給料が全額金券に化けるなんて、考えたくもない悪夢です。まあ、経営者が納屋頭出身ですからねえ。結局、同年、高倉砿業の筑紫炭鉱は休山します。この後、野見山鉱業株式会社が再開させますが、閉山間際には出炭が約1万9千トンに落ち込むなど、厳しさは増すばかりで、1961(昭和36)年に閉山しました。ちなみに高倉砿業も野上鉱業も現存する継続会社があります。また、筑紫炭鉱にはいくつか租鉱権炭坑が稼行しており、そのひとつに浜崎由松の矢浜炭坑(矢浜砿業所)がありました。年間3万トンほどを採炭していたようですが、1958(昭和33)年に閉山しています。