金丸鉱山(かなまるこうざん)は新潟県岩船郡関川村にあった鉱山。山形県西置賜郡小国町との境界近く、...

金丸鉱山

金丸鉱山 概要・歴史

金丸鉱山(かなまるこうざん)は新潟県岩船郡関川村にあった鉱山。山形県西置賜郡小国町との境界近く、...

金丸鉱山 画像

金丸鉱山の索道支柱(2014年11月)
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金丸鉱山(1977年9月)
©国土地理院
金丸鉱山の索道(1977年9月)
©国土地理院

近くのスポット

金丸鉱山 ストリートビュー・空中写真

金丸鉱山 関連ブログ・参考リンク

https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/18-08_02.pdf
http://nishimiyaushiro.blog18.fc2.com/blog-entry-523.html
米坂線は小国からは荒川の渓谷区間を進み越後金丸駅を過ぎたところでとんでもないものが目に入りました。岩船ダムのダム湖となった荒川対岸に錆びた鉄塔が見えます。高さは30m超というところか。見た感じからして高圧線の鉄塔などではありません。上部にはワイヤーロープガイド
http://mikkun.yu-nagi.com/fl/kanamaru/kamino.html
秋遠足秋の遠足は、歩き遠足です。今年、平成10年度は、金丸小学校の分校があった、上ノ沢鉱山へ行きました。往復13.4キロメートルの山道を全校で歩き通しました。上ノ沢鉱山です。ここは日本一良質の長石が採れます。焼き物の釉薬になります。現在は、露天掘りになっていま
http://stampmichi.sakura.ne.jp/kanamaru-kanzenon-mine.htm
追憶の観世音-金丸鉱山上ノ沢より見上げる金丸鉱山全景・1995年5月撮影。まえがきこの狭い国土に律令国家が成立して現代に至るまでに開発された鉱山は、個人で採掘した小規模なものまで含めると数千とも言われています。人跡未踏の地でも鉱床が発見され、経済的価値が有ると判断されると鉱山が開発されます。たとえ峻険な山奥でも人は富を求めて集まり、集落や町を作り、鉄道と駅が作られ、主要な箇所は道路で結ばれます。鉱山が他の業種と違うのは地下に埋蔵された「天与の富」は有限で再生産はされず、採掘が続けば必ず枯渇します。これを減耗(げんもう)資産といい、投資により増える資産とは異なります。需給によって常に価値が変動し、掘り尽くすか不採算になれば閉山して、人々は去り鉱山施設と集落は廃墟になります。かつてこの国には鉱山が栄え、大勢の人々が鉱業に従事した時代が有り、今では想像もつかないような山奥に人々の営みがありました。これから紹介する鉱山も、沢の転石から偶然に鉱床が発見され、豪雪地帯のため冬季は交通途絶する峻険な山中に開かれました。〜鉱業の変遷〜我が国における鉱物の大規模な利用は、天平時代に国家事業として銅、金、水銀、錫の採掘より始まり、戦国時代には銀を、江戸時代には銅を輸出するようになります。明治以降は国家の近代化と富国強兵を支える主要な産業として、当時の最先端の技術と人員、資本が投入され隆盛を究めました。昭和に入るとエネルギー資源「石油」の需要が急増しますが、国内生産では到底応えられず、一億人の国民が必要とするあらゆる「資源」を求めて我が国は大戦に突入しました。この世界大戦は「資源を持たざる国家が、資源を持てる国家」に、”資源の確保””生存圏の拡大”を求めた争いでもありました。戦争遂行の為、国内の鉱山は国家の統制下に置かれ、採算を無視した乱開発と、探鉱を怠り、富鉱を掘り尽くした結果、鉱利を損じ、更には労働者は徴兵され、資材と人員の不足で疲弊した鉱業界には終戦時に老朽化した設備だけが残されました。戦後は経済復興の為に国家が優先的に支援を行い、...2021年撮影右・露天採掘場へ至る最短登攀ルートかつての運搬道路は草木が繁り、距離も約2kmと長いのでお勧め出来ません。観世音沢、水鉛沢はズリが堆積しているうえに傾斜が急で登攀は不可能です。山神社裏から尾根伝いに3号坑を経由する微かな踏み分け道があります。道を辿れば3号坑までは比較的容易に行けます。3号坑から先は採掘に伴う土砂が崩落しているうえに、積雪で灌木の枝が下に向いて障害となり、ここが最大の難所ではありますが・・・この道は昔は不老峰を越えて観世音鉱山へ通じていました。あとがき鉱山の仕事を辞めてからも、初夏に咲くタチアオイの花を見ると金丸鉱山を思い出します。飯豊町から小国町、越後金丸、関川村と国道113号線沿いにあちこちでタチアオイが咲いていました。ちょうどこの時期に金丸鉱山では露天採掘への準備作業が佳境を迎えていました。20代、最も楽しく充実していて、思い出深い出来事が金丸鉱山での仕事でした。不思議と何度か金丸鉱山の夢を見るようになったのが2021年の初頭。豪雪地域故に冬季は訪問も叶わず、ひたすら雪解けを待ち5月の連休明けに居ても立っても居られなくなり32年ぶりに金丸鉱山を訪問しました。融雪で林道は荒れ果て、最初の砂防ダム付近に車を停めて歩くこと約4km。草木に覆われた鉱山跡にようやく辿り着きました。鉱山施設は既に無くて、閉山から僅か十三年で草木に覆われ、あまりの変わり様に言葉を失いました。入坑する際に必ず帽子をとって無事を祈願した山神社は倒壊していて、涙しました。山神社裏から3号坑を経由する尾根伝いの微かな踏み分け道を辿り、ズリを登攀し、へとへとになりながら嘗ての露天採掘場に着いて思わず歓声を上げました。若き頃は毎日この道を20分で登ったのを思い出し感無量でした。草が繁り道が辿れなくなる夏場を除き、あれから数回訪れました。本格的な雪になるまでにあと何回行けるか・・・金丸の山々には今でも私を引き付ける「力」があります。2021年10月24日記す                    ご意見・ご感想はホームのメールフォームからが簡単です↓ホーム「秋田鉱山専門学校伝統歌集」のページへ「鉱山用語と鉱山のおもしろ話」のページへ「左沢線、米坂線」のページへ
https://www.hotetu.net/kouzannkidou/190914kanemarukouzankidou.html
更新日時 2019年10月15日 金丸鉱山軌道:金丸鉱山のペグマタイト鉱床はカリ長石を主とし露頭 付近では石英のきわめて少ない鉱床であり、第二次大戦 以後急速に開発され規模が大きいため、今日我が国の主要な長石資源供給地になつた。鉱石の運搬は各坑口から本索道起点まで 軽索で集積し山元一金丸駅選鉱場4,650mの距離を索道運搬による。索道の搬出能力は1日約120tと言われる。①金丸鉱山の貯石場。②金丸鉱山の鉱山事務所。②金丸鉱山の貯石場。③金丸鉱山の索道基礎が残る。④金丸鉱山の索道の鉄塔が残る。⑤国道113号線から金丸鉱山に入る道。⑥長石橋から先が道路補修を行っていて令和元年7月31日迄通行止め(2019年6月01日撮影)⑦洗い越しから先は徒歩での探索。⑧撮影位置を確認するのに橋梁の撮影は必須だ。⑨雑草に覆われているがカーブミラーが残るため、ここが道路だった事が判る。⑩山の中に木柱が残る。⑩金丸鉱山の近くに砂防ダムがあった。⑪地図記号が残る金丸鉱山神社の社が崩壊していた。⑫抗口から流れ出しているのか判りませんが抗口の下側に小さな滝があった。⑫金丸鉱山の鉱山施設。ここから水が流れ出しているのか?金丸鉱山の図面。 出典: 新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について戻る  Copyright (C) 2006-2023 hotetu.net All Rights Reserved外部から直接リンクで飛んできた方は右ホームページリンクへ http://www.hotetu.net/ 歩鉄の達人出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『小国町』を掲載」出典: 新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/15.Niigata/Sekikawa_Kaminosawa.html
      ◆上ノ沢(かみのさわ)(金丸(かなまる)鉱山)※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「小国」(昭和41.3)を使用したものである所在:関川村湯沢(ゆさわ)地形図:舟渡/小国形態:山中に家屋や施設が集まる離村の背景:産業の衰退標高:約350m訪問:2017年11月  大字湯沢の東部、上ノ沢(荒(あら)川支流)の上流部にある。金丸鉱山に伴う鉱山集落。 以下は村史より当地の概要。 昭和7年、行者が上ノ沢沢口で光沢のある鉱物が付着した石を発見。寺院に飾られたが鑑定の結果タングステン鉱であることが判明。上ノ沢においてタングステン・モリブデンの鉱山が発見された。鉱山はこの寺の本尊観世音菩薩の導きによるとし、観世音鉱山と名付けられ昭和11年より採掘開始。戦時中は栄えたが、終戦とともに休山。 付近一帯は長石の埋蔵量がきわめて多く、その開発を目指して昭和23年日本窯業株式会社上ノ沢鉱業所が置かれ、同25年より採掘開始。昭和41年には38戸93人が生活。のち長石の需要が減少し、中学校分校は昭和44年9月、小学校分校は同50年3月それぞれ閉校。住民も離村。現在(※)はカナマル株式会社金丸鉱業所として通勤により採掘が継続。※ 刊行当時(平成4年) また同書によると、昭和35年27戸98人。 現在は閉山となって久しいようで、現地までの道も車輌で通行できるのは途中まで。最近の地図でもいくらかの建物と神社が記載されているが、施設も撤去されたようで荒地となっており、ごく一部の遺構を確認。神社では社殿が傾きながらも残っている(写真3)。  HEYANEKO氏によると、当地には金丸小学校上の沢分校があったとのこと。昭和50年閉校。 写真1 集落跡を望む写真2 電柱写真3 神社にて写真4 施設跡(写真3の後方にも見える)写真5 電気関係の何か写真6 施設跡(=写真4)写真7 写真6から遠方を望む写真8 電柱写真9 送水管写真10 施設跡写真11 写真10にて写真12 同。坑口?写真13 排水写真14 設備跡
https://ameblo.jp/h16c/entry-12674579817.html
昨日は19時過ぎには寝てしまいました。流石にね。糖尿病がなくなってから疲れなくなってきていて、その分、一日中動きまくっているため、通常でも18時を過ぎると眠くなってしまいお風呂から出る頃には限界状態。最近は寝るのが更に早くなりました。そのかわり朝も早い。お年寄りへ少しずつ近づいてるのかな?「金丸鉱山跡」今回は以下の部分の調査をしました。てっきり未調査のところまで行ったと思っていたのですが、後からネットに繋いで見てみると違うようです。