三川鉱山(大谷金山) 関連ブログ・参考リンク
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/15.Niigata/Mikawa_Mikawa-mine.html
◆三川(みかわ)鉱山※この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「津川」(昭和32.2)を使用したものである所在:阿賀町五十沢(いかざわ)地形図:東赤谷/津川形態:川沿いの斜面に家屋や施設が集まる標高:約250m訪問:2016年11月大字五十沢のうち、
http://mikkun.yu-nagi.com/07min/014mikawa.html
三川鉱山跡1:三川鉱山跡2:三川鉱山付近三川鉱山跡に行ったよ♪坑口も多く残っているです~ズリも多く残っているです~どこのホームページにも載っているから~二次鉱物で有名になったみたいです~☆資料によると1530年長居三十朗が発見とか、文書では天文二年(1534年
http://kinno-homepage.sakura.ne.jp/mineral/mikawa.pdf
http://www.geocities.jp/kaimosa/off/110924/110924.html
大谷金山開催日:2011/09/24(土)天候:晴れ参加者:1名mosa...今日は一人でバイク海苔。本日仕事・・・でしたが、天気はいいし、バイク海苔さん達はツーリングいっちゃうし、明日は休日出勤だし、ですっかりやる気を無くしたので、ワタシもツーリングっ!(意
https://ameblo.jp/n-radar/entry-10150430526.html
2008/06/07撮影大谷川上流やっと見つけましたよ場所は林道から広場に降りてそのまま道なりに行けば・・・見えてくるはず。川は渡らずに、、、、
http://sabuchan.blog.so-net.ne.jp/2012-11-05-01
3月27日に三川鉱山管理地の住民A氏よりコメントをいただきました。入山許可をとりましたか。持ち帰る許可を取りましたかとか、詳しく聞きたいのでメール記載がありました。メールがあまり得意でないので電話を探しましたが分からず、管理しています五十沢森林生産組合組合長S
http://orioweb.net/mineral/060827akatani_mikawa/060827mikawa.html
2006年8月27日新潟三川鉱山の探査猿/熊/大藪/そして二次鉱物赤谷鉱山の一山向こうに、二次鉱物の宝庫、三川鉱山はある。熱水鉱脈型鉱床で、明治時代から金、銀、銅、を採掘、戦後山体下部で鉛、亜鉛を採掘していたが昭和36年に閉山している。昨年は三川村を通過してし
http://milkyway3.blog.shinobi.jp/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E4%B8%89%E5%B7%9D%E9%89%B1%E5%B1%B1/
2016年3月採集者のマナーが悪いために、三川鉱山とその一帯での採集・立ち入りが完全禁止となりました。三川鉱山はいろいろ思い出深い場所なので、とても残念です。
http://pulam.blog.fc2.com/blog-entry-274.html
鉱物マニアの間では有名な?鉱山。アクセスし易いってのが良いのかな?江戸期には「大谷金山」として開発され、その後は「金」「銀」「銅」等を掘っていたようです。鉱山へ至る旧道を進むと、選鉱場跡の石垣が見えてくる。選鉱場脇にある、貯鉱場跡。貯鉱場の中には、有名な?ジム
http://yamaguchifuyuto.blog.so-net.ne.jp/2016-04-23
三川鉱山へ行って来た昭和37年に閉山し現在五十沢生産森林組合の管理下らしい標札も看板も無いので分かり難くい阿賀町には沢山の鉱山跡がある持倉鉱山跡・草倉銅山跡・鹿瀬鉱山跡など・・・・
http://cgi.tiny.jp/tt/archives/2007_5_16_78.html
昨夜のNTT回線障害も直り、アウトドア日和となった本日、旧三川村(現阿賀町)新谷地区の山奥にある三川(大谷)鉱山跡地にきれいな石を採取に行ってきました。GWに間瀬海岸で行った地学ハイキングで採取した沸石をインターネットで調べていたら、三川鉱山跡地でもいろいろな
http://blog.livedoor.jp/gogomogutan/archives/7514918.html
2012年10月14日日曜日天候晴れ今日は仕事仲間3人(理科センター☆野教諭、○小学校A教諭、そして私)で二次鉱物産地として知られる三川鉱山で研修会だ。三川鉱山は天文2(1534)年に開山、昭和36年の閉山まで400年以上にわたって金、銀、銅、鉛、亜鉛を産出し
http://riajyuusine.blog.fc2.com/blog-entry-111.html
次は三川鉱山跡に石拾いに向かいます。どこだっけなー草が茂ってズリに続く道が判らなくなっています。適当に進んだら大失敗でした。雨上がりの藪を1時間以上藪漕ぎする事になってしまいました。弱り目に祟り目、雨まで降って来ました。それでも何とかズリに到着。銅の二次鉱物を
https://mines-archives.ie-t.net/niigata/mikawa
室町末期天文年間の発見と伝えられ、かつては大谷金山として金銀鉱を産出し、後に銅鉱をはじめとする多種鉱物を産出して栄えました。 明治期に入ると経営者の度重なる変遷を経て、1888 年(明治 21 年)東京の実業家 恒川新助らが設立した大谷金山合資会社の経営に移ります。 1891 年(明治 24 年)より五十嵐佐平、吉田亀太らが共同経営を開始して金銀鉱の採掘と製錬を行い、1900 年(明治 33 年)に大谷金山株式会社を設立しました。 後に鉱区の拡張や製錬所の設置を進め、東雲製錬所へ余剰鉱石を売鉱します。 1906 年(明治 39 年)東京の実業家 長尾三十郎、恒川新助らが日本金鉱会社を設立して事業を引き継ぎ、後に銅鉱の採掘と製錬を試みますが、数年で製錬操業を廃止して日立鉱山及び小坂鉱山への売鉱に転じました。 第一次大戦終結後の経済不況や鉱物価格の下落から次第に経営は傾き、1932 年(昭和 7 年)に日本鉱業との共同経営を開始して三川鉱山と改称します。 その後、日中戦争に伴う金属需要の増加を背景に業績は好転し、1940 年(昭和 15 年)に選鉱場を設けて設備を拡充させました。 1943 年(昭和 18 年)に年間粗鉱量 5 万 5,443 t を記録して最盛期を迎え、翌年の従業員数は 432 名に達しました。 1946 年(昭和 21 年)に単独経営を開始した日本鉱業は、翌年より亜鉛、鉛、硫化鉱の生産に順次着手し、金銀を含有する精鉱を各地へ出荷します。 銅精鉱は日立製錬所へ、鉛精鉱は日立製錬所、後に佐賀関製錬所へ、亜鉛精鉱は日本曹達大寺製錬所、後に三日市製錬所へ、硫化精鉱は新潟硫酸へと送られました。 1961 年(昭和 36 年)高品位鉱石の枯渇や輸入鉱石の影響を受けて操業は採鉱部門を残して休止され、翌年に閉山を迎えます。 周辺には巨大な選鉱場跡が今も残ります。