野々脇鉱山 概要・歴史
野々脇鉱山は徳島県美馬市にあった鉱山。銅・硫化鉄が採掘された。
発見は1685年にまで遡るという。東山鉱山の「太郎」、神領鉱山の「次郎」と並んで「三郎銅山」とも称された。
1897(明治30)年頃になって本格的に稼行、岡山県の大林陶一郎が山元で精錬を行い栄えた。
1907(明治40)年頃から大阪の企業が経営、1917(大正6)年から大阪の銅屋喜多河栄助が買収、北盛坑を開坑するも、1932(昭和7)年頃に銅価格下落などにより休山。
1935(昭和10)年頃に大阪の小野實に移り、北盛坑で優秀な鉱床を発見、1938(昭和13)年4月より機械採掘に着手、盛んに採掘を行った。
1939(昭和14)年4月に朝鮮製錬株式会社が譲り受け坑内外の設備改善に着手、四国配電株式会社(後の東邦電力)と電力需給契約を締結して1942(昭和17)年2月に受電設備を設置完了。本坑および斜坑を開削、また山元より徳島本線湯立駅に通じるトラック道路を改修して1942(昭和17)年5月に竣工した。ただし道路は急坂で鉱石の運搬が円滑に行えず、運搬経路を徳島本線穴吹駅に変更し、簡易索道を設置して運搬することになった。
1944(昭和19)年9月に大阪の前川徳太郎に移り、往復式索道を設置するも、1945(昭和20)年6月に決戦非常措置に基づく命令により事業を休止した。
戦後は1948(昭和23)年に設立された千原鉱業株式会社が買収。後に三井金属鉱業株式会社が株式取得により継承、1950(昭和25)年1月に野々脇鉱山を併合した。
1957(昭和32)年頃には鉱量が枯渇してきたが、探鉱の末に着床、北進坑と称し、買山当時の鉱量を凌ぐ生産量を得た。
正確な閉山時期ははっきりしないが、以上の来歴を記した『三井金属修史論叢』(三井金属鉱業修史委員会事務局、1968年12月)では依然稼行中なのに対し、『徳島の自然地質 1』(岩崎正夫 編 徳島市中央公民館、1979年3月)では「休山」とされていることから、1970年代前半頃には閉山したと考えられる。
2010年頃まで坑口が確認できたらしいが既に埋没している。ズリ跡が残る。
かつて鉱山事務所などが置かれていた野々脇集落もほぼ無人となり、2軒の住宅が残り管理はされているが定住者はいないらしい。2023年頃にこれらの民家の周囲の木々が抜歯され見通しが良くなり、うち1軒は厠のような建物で、もう1軒にも居住者はいない様子なのが確認されている。
(※参考:『四国鉱山誌』(四国商工局鉱山部 編 四国鉱業会、1947年10月)、『三井金属修史論叢』(三井金属鉱業修史委員会事務局、1968年12月)、『徳島の自然地質 1』(岩崎正夫 編 徳島市中央公民館、1979年3月))