のと鉄道能登線 関連ブログ・参考リンク
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更新日時 2018年09月24日 のと鉄道能登線は、石川県鳳珠郡穴水町の穴水駅と石川県珠洲市の蛸島駅を結んでいた鉄道路線である。開業以来30年間の間日本国有鉄道の経営下にあったが、国鉄末期の国鉄再建法により特定地方交通線に選定され、廃止の危機に瀕した。鉄道の存続を希望した石川県は第三セクター鉄道として能登線の存続を図り、のと鉄道を設立してこの運営を引き継がせた。能登半島の北部奥能登の南岸を走っていた路線。過疎地域に建設され、政治路線との批判を免れなかった。開業当時には既に自家用車が普及しつつあり、乗降客は数年増加したのちには早くも減少を始めた。1970年から1973年までSLによる「ふるさと列車おくのと号」が運転されるなど、国鉄時代から集客の取り組みが行われていたが、乗客減少には抗えず、沿線自治体は1981年に「能登線存続期成会」を結成して存続活動を展開。しかし1985年に第3次特定地方交通線(以下・第3次指定)候補に選定されてしまう。これを受け石川県は1986年、「能登振興のために鉄道は必要」として、第三セクターを設立して存続する意向を示し、共に三セク化によって第3次指定路線の存続を図っていた高知県・愛知県(それぞれ土佐くろしお鉄道・愛知環状鉄道を設立)とともに能登線の早期の第3次指定を国に求めた結果、1986年5月末に第3次指定に先行承認される異例の事態となった。こうして1987年に第三セクター「のと鉄道」が設立され、1988年にのと穴水駅(現・穴水駅) - 蛸島駅間が「のと鉄道能登線」として開業した。転換後に列車のフリークエンシーを向上させた結果、収支はほぼ均衡を保ち、開業初年の1988年から1990年にかけて単年度黒字を計上していた。しかしのと鉄道が七尾線の経営を引き受けた頃からのと鉄道の赤字額が目に見えて増大し始め、同時に能登線の乗客も減少していった。2004年3月23日ののと鉄道の取締役会でついに能登線の廃止が決議され、2005年4月1日付で廃止に至った。廃止後は能登中央バス・奥能登観光開発(現在は統合されて北鉄奥能登バス)による路線バス(代替バス)に転...大会「第14回日本ジャンボリー」において、列車と綱引きをして何人の力で動かせるかというプログラムに利用され、ホームに置かれていた気動車が、汽笛を鳴らしたりと往年の姿を思わせる復活をした。(2009年5月2日) ⑪現在駅舎はNPO法人「のとレールエア21」が管理しており、内部が一般公開されることがある。このほか、NT100形気動車が、駅から200mほど西側の築堤上に設置された「新蛸島駅」に保存され、ゴールデンウィークや夏休みなどを中心に走行している。この車両は、蛸島駅西側に新しい道路が建設されたことにより線路が分断されたため、新蛸島駅に移設されたものである。(2009年5月2日) ⑫蛸島駅(たこじまえき)は、石川県珠洲市正院町にあったのと鉄道能登線の駅(廃駅)。能登線の終着駅でもあった。能登線の廃線に伴い、2005年(平成17年)に廃止された。(2009年5月2日)⑫蛸島駅(たこじまえき)2009年と比べて飲料の自販機が無くなったことが解る。(2017年8月15日) ⑫蛸島駅に記念グッズを売っている自販機があるが、完全に動いていないようだ。(2017年8月15日) ⑫JR時代は駅員が配置されていたが、のと鉄道への転換以来無人駅となっていた。また出札窓口が残っており、鉄道グッズが販売されていた。転換後、当駅以東への延伸が検討されたこともあるが、実現することはなかった。(2009年5月2日) ⑫単式ホーム1面1線のみを持つ地上駅。線路は当駅から先ほんの数メートルほど伸びて終わっていた。線路の末端にあった車止めは廃止後撤去され、現在は穴水駅構内で使用されている。小さなコンクリート造りの駅舎は、珠洲市正院町にあったが、ホームは珠洲市正院町と同市蛸島町にまたがっていた。(2009年5月2日)⑫蛸島駅(たこじまえき)単式ホーム1面1線のみを持つ地上駅。(2017年8月15日) 戻る Copyright (C) 2008-2019 hotetu.net All Rights Reserved外部から直接リンクで飛んできた方は右ホームページリンクへ http://www.hotetu.net/出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『穴水町・能登町』を掲載」
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のと鉄道能登線(2005年4月1日廃止)のと鉄道能登線の概要のと鉄道能登線の始発駅だった穴水駅構内のと鉄道能登線は、かつて穴水駅(石川県鳳珠郡穴水町)と蛸島駅(石川県珠洲市)を結んでいた鉄道路線です。2005年(平成17年)4月1日に穴水-蛸島間 (61.0km)が全線廃止となっています。1959年(昭和34年)6月15日に穴水-鵜川間 (22.9km)が開業したのが最初で、その後、1964年(昭和39年)9月21日に全線開通しています。開通から一貫して日本国有鉄道の路線でしたが、国鉄末期の国鉄再建法により、1985年には第3次特定地方交通線候補に選定されてしまいます。能登線存続を希望した石川県は能登線の早期の第3次指定を国に求めた結果、1986年(昭和61年)5月27日に第3次特定地方交通線に先行承認される異例の事態となっています。1987年(昭和62年)4月1日には国鉄分割民営化によりとりあえず西日本旅客鉄道が能登線を継承しています。石川県は、1987年(昭和62年)4月30日には第三セクター会社のと鉄道を設立して能登線存続に備えています。1988年(昭和63年)3月25日にはJR西日本能登線としては廃止となり、同時にのと鉄道能登線として開業し、その運営を引継いでいます。第三セクター転換後、のと鉄道能登線は当初は収支がほぼ均衡を保ち、転換交付金を積み立てた基金で営業損失を補填した結果、開業後3年間黒字を計上しています。しかしのと鉄道が七尾線の経営を引き受けた頃からは、のと鉄道の赤字額が目に見えて増大し始め、同時に能登線の乗客も減少して経営が苦しくなっていきました。しかものと鉄道の赤字の多くは、新たに引き継いだ七尾線からの赤字でした。甲駅駅舎2000年(平成12年)3月には、七尾線穴水-輪島間20.4kmの廃線が決定され、2001年(平成13年)4月1日付けで廃止されています。穴水-輪島間の廃止は、モータリゼーションの影響もありますが、七尾線は特定地方交通線の指定を受けたわけではなく、転換交付金が受けられないことからJR西日本がそのまま線路を保有していたため、JR西日本に対する約1億3400万円にも上る線路・設備使用料...トロ号往復乗車券能となっています。以前は、NT100形気動車が、駅から200mほど西側の築堤上に設置された「新蛸島駅」に保存され、ゴールデンウィークや夏休みなどを中心に運行されていたとのことですが、現在は放置されています。これで能登線廃線跡の探索は終了しますが、61kmもの長大な路線が廃線となった影響は計り知れないものがあるでしょう。さらに追い打ちをかけるようですが、高等学校の統廃合もあって、高校へ通学すること自体が困難になる場合もあるようで、金沢市周辺に下宿を余儀なくされるケースもあると聞いています。もともと能登線を第三セクター化した後は、のと鉄道の経営も安定していたのに、七尾線(七尾-輪島間)まで第三セクター化したことで、経営状況が悪化しているのですから、JR西日本のやり方もまずかったと言えますが、石川県の無為無策も責められるべきだと感じます。特に経営方針を経営コンサルタントに任せたことが命取りとなっていると言わざるを得ず、穴水-輪島間が廃線になってしまうと、接続線を失った能登線までが経営が立ち行かなくなってしまうことになり、能登線まで廃線に追い込まれてしまっています。これは、ある意味教訓ではないでしょうか。自分たちの力で問題を解決しようとせず、他人の力を頼りにしたらろくなことがないということでしょう。比良駅駅舎鹿波駅跡沖波駅ホーム前波駅待合所古君駅待合所七見駅待合所矢波駅ホーム波並駅待合所藤波駅待合所宇出津駅旧駅舎羽根駅待合所とホーム小浦駅待合所とホーム縄文真脇駅待合所白丸駅待合所とホーム九里川尻駅待合所とホーム松波駅駅舎九里川尻駅待合所とホーム松波駅駅舎は奥能登トリビア蔵「松波城址情報館」南黒丸駅待合所とホーム鵜飼駅駅舎上戸駅待合所飯田駅ホームに貨車がありました珠洲駅は「道の駅すずなり」となった正院駅駅舎終点の蛸島駅駅舎恋路駅の「のトロ号」 スライドショースライドショーの使い方 3つのボタンで画像を移動できます。 最初・・・最初の画面に戻ります。 戻る・・・一つ前の画像に戻ります。 次へ・・・次の画像に移動します。 拡大・・・拡大画像を表示します。 のと鉄道能登線 路線マップ
http://sanpototabi.blog.jp/archives/1077280247.html
かつて北前船が流通の主役だった時代より鉄道の時代へと移り変わり、能登半島は果ての地となってしまいました。しかし鉄道網の発展により1935年、北陸本線の津幡より外洋に面する輪島へ至る国鉄七尾線が全線開通。その後富山湾に面する内浦地区の各漁村を結ぶべく、穴水より枝分かれして蛸島へと至る国鉄能登線が1964年に全線開通した。しかし人口減少や自家用車の普及に伴い赤字路線となり廃止の危機を迎えるも、国鉄がJRへと分割民営化された後の1988年、和倉温泉以北の七尾線と能登線は第三セクター形式での存続が決定。のと鉄道が発足する。写真は現在の穴水駅構内。当初のと鉄道は運転本数を増やすことで利便性を向上させ黒字経営に転じさせた。しかし半島の中央などに道路が整備され、モータリゼーションに少子化や過疎化の波が追い打ちをかけた結果、2001年には穴水〜輪島間が、2005年には穴水〜蛸島間が廃止されてしまいました。かつて観光列車として活躍したのと恋路号が、蛸島方面へと向かうホーム跡に留置されたまま。しかし車両はイベント会場等に再利用されています。
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先月始めの週末を利用して、2005年に廃止となったのと鉄道能登線(穴水~蛸島間、61.0km)の廃線跡を巡って来ました。そこで、今記事では今回の遠征で訪問した、のと鉄道能登線の“今”をご紹介したいと思います。時間の関係で今回訪問できたのは10駅でしたが、その分多くの画像を交えてご紹介できたらと。訪問順に書き記しますが、各駅へのリンクもございますので、自由にご観覧頂けたらと思います。
http://www.pi-taro.sakura.ne.jp/noto-line/
http://nacl.sakura.ne.jp/tabinokioku/notoseniroha.htm
▲鉄道雑学研究所北陸支所トップへ ▲旅の記憶、旅の記録INDEXへいろはトンネルをめぐる旅 その1「色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔いもせず」仮名48を過不足なく用いて世の無常を詠った「いろは唄」です。これをしげしげ眺めて、改めてこの完成度に嘆息してしまうわけですが、とりあえずそれはさておき、無常と言えば、のと鉄道能登線穴水~蛸島間が平成17年3月をもって廃止となることが決定しています。ちょっとその前の様子を見に、しかしせっかくだから何か「取材」するものはないものか。そうだと思いついたのが、冒頭の「いろは唄」、能登線の「いろはトンネル」のこと。これを全てカメラに収めてみようと、暮れも差し迫った12月半ば、行ってまいりました。まず能登線の「いろはトンネル」とは何か。能登線には小さなトンネルが全部で49個あり、その一つ一つに「い」「ろ」「は」の順に一文字ずつ仮名が振られている。まぁ日光の「いろは坂」みたいなもの。上の画像のようにトンネルの壁面に小さく仮名が振られてる。ただ「いろは」の数え唄は、「ん」を併せ、現代語より「ゐ」「ゑ」の二文字が多いとは言え、全48文字。その49個目のトンネルは珠洲駅の手前にあるトンネルで、どんな仮名が振られているかというと、それは「すず」。珠洲駅がいろは順では最後に来る駅、ということでこの趣向が生まれたのだろう。思えば鈴鹿駅や雀宮駅、現在となっては中央本線にすずらんの里駅だってあるのだけれども。まぁ語呂の問題なのか。さて、まずは七尾駅初発の穴水行きからスタート。のと鉄道沿線からは早朝の流動はこの七尾、さらには金沢を志向するため下り列車の初発はわりに遅い。7時8分発である(ちなみに穴水始発の下りはもっと早い)。使用する切符は「のと一日のんびりきっぷ」。のと鉄道のフリー切符で、1,700円、土日祝日に使用できる。これでとりあえず終点の蛸島へ向かうことにする。正直言って、計画は立てていない。しかし列車本数は極めて少ないので、道中旅程を考える時間は必要以上にある。日が暮れたら戻ればよい、程度のお気楽な旅である。のと...ーを切る、というやり方が一番成功率が高そうだと分かった。AFロックのやり方が分かっていればこんな原始的な方法はとらずともよいのだが(笑)。列車は沿線の車窓のハイライト、矢波付近を越え、中間主要駅宇出津に到着。ここで通学客や買い物客の多くは降りてしまった。この辺り、中距離、特に下り方面への流動は希薄のようで、朝の下り列車などは特に、市町中心駅である宇出津、松波、飯田・珠洲の前後で客が入れ替わるようだ。穴水や宇出津近辺の利用者が珠洲を訪れたことがないなどという人の声もちらほら聞いた。越市町の流動はこの時間帯は上り列車が主体となるようだ。甲駅構内からは、駅のヌシ、郵便車が消えていた。海沿いの駅、波並駅に到着。いろはトンネルはというと、宇出津到達時点で、「か」まで。まだ4分の1程度であるが、宇出津を出てしばらくが、いろはトンネルでいうハイライト区間。短いトンネルを出ては入りを繰り返す。「よ」「た」「れ」「そ」…、とまさに「数え唄」の状態である。本来トンネルの合間に顔を覗かせる海に目を奪われるところ、一人正面を注視する。無人地帯の駅白丸、集落と田園の狭間の築堤にある九里川尻、内浦町の中心松波、観光地恋路と過ぎると珠洲市域に入り、南黒丸付近からはようやく平地に出る。後は淡々とした区間となるが、トンネルはあと3つある。上戸駅の手前で47個目「す」のトンネルを越えると、珠洲市街地も近い。珠洲市の中心に位置する飯田駅だが、雰囲気は殆ど山の中である。次の珠洲駅との間にまだ2つトンネルがあるのだから、鉄道で訪れる珠洲市は海というより山の街である。飯田駅を出てすぐ48個目「ん」、そしてラスト49個目、言わば“オチ”である「すず」のトンネルを越え、まもなく珠洲駅に滑り込んだ。珠洲駅からは運行管理方法も変わり、スタフ閉塞となる。そのためか停車時間は長い。ホームへ出て一休み。一応「いろはトンネル」は全て収めたが随分と失敗してしまった。復路に賭けることにする。構内の車庫には2年前の春に定期運用が停止されたのと鉄道の「虎の子」パノラマカーが休んでいた。49個目「すず」の珠洲トンネル。珠洲駅の車庫に、久々に見るパノラマカーがいた。その1 / 2 / 3(おまけ) / 4(後日) へ▲鉄道雑学研究所北陸支所トップへ ▲旅の記憶、旅の記録INDEXへ
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国鉄能登線は昭和39年蛸島まで全通。昭和62年、国鉄民営化によりJR西日本能登線となり、昭和63年には第3次地方交通線に指定され第三セクター「のと鉄道」に引き継がれましたが、平成17年3月、廃線に・・・ログハウス風の縄文真脇駅の駅舎。三セク時代のまだ新しい看板が切ないですね。すでに線路も取り外されて、雑草が生い茂っています。この先は、九十九湾小木駅 へつづいています。
https://ukkari-nihontabi.net/archive/travel/notohantou-haisen/
かつて、能登半島には「のと鉄道」が輪島市の輪島駅(七尾線)、珠洲市の蛸島駅(能登線)まで走っていましたが、現在は大半が廃線となって久しくなっています。(現在は七尾駅から穴水駅まで営業されています)廃線後はほとんどのレールや枕木が撤去されてしまっていますが、中には現在もかつての姿のままで残っている場所や、面影を残している場所もあります。今回は、路線バスの旅の道中に見る、かつての「のと鉄道」の足跡をまとめてみようかと思います。輪島駅 (現「道の駅輪島・ふらっと訪夢」)
https://blog.goo.ne.jp/oda9000/e/06b13b3f7a5ba788caf3ca9b946c9d8c
廃線になる路線では、当然ながら、そこで使われていた車両の処遇も問題となってきます。他線区やに転用されたり、他社に譲渡されたり、はたまたイベント用に改造されたり。そうして長生きする車両もいれば、路線と運命を共にする車両も少なからず存在します。今回ご紹介するのは、そうして運命を共にした挙句、現在もその行先が定まらない、まさに「不遇な」車両です。以前能登線の廃駅巡りの記事をアップした際、線路が残っているとご紹介した藤波駅付近。草ばかりの同駅から波並駅の間の跨線橋の下に、現在も眠り続けている車両がいることをご存知でしょうか。
https://rail.hobidas.com/rmnews/259550/
2日間限定で廃列車(NT102)がカフェに。貫通扉が出入口。‘19.12.14 のと鉄道 旧能登線(廃線) 正院~蛸島廃列車の車内でゆったり過ごすひと時。旧能登線の思い出話などが飛び交った。‘19.12.14 のと鉄道 旧能登線(廃線) NT102車内(取材許可および来客に一声かけて撮影)生徒達が考案したスイーツや、自ら豆を挽き淹れた温かいコーヒーが提供された。‘19.12.14 のと鉄道 旧能登線(廃線) NT102車内(取材許可を得て撮影) のと鉄道旧能登線の廃線跡(正院~蛸島間)で保存されている、NT100形気動車(NT102)を活用したカフェ”廃列車Cafe”が、2019(令和元)年12月14日と15日の2日間限定で開かれ、石川県内外から多くの来客が訪れ賑わった。これは、石川県珠洲市にある石川県立飯田高等学校が授業の中で行っている探究型学習「ゆめかなプロジェクト」で、「廃列車カフェを開こう!」を目標に集まった生徒達が企画し、NT102車輛の所有者や地元珠洲市民らの協力を得て実現したもの。 生徒達は草刈りや車内外を清掃したり、カフェで提供するメニューを考えるなど準備を進め、開店当日には車内を開放し、生徒達が考案し商品化した和洋のスイーツの販売と、希望者には淹れたての温かいコーヒーやソフトドリンクなどが提供され、専門店顔負けのこだわり溢れる企画となった。
https://ameblo.jp/sterin0626/entry-12402391820.html
珠洲駅→鵜川駅と来て最後に終点の「蛸島駅」へ行く途中。SNSで藤波という地区にのと鉄道の車両が放置(扱いは保存らしい)されていると聞き探索を開始。藤波地区には藤波駅跡があり立ち寄ってはみたものの前回の鵜川駅より自然にのまれていた。(写真撮るの忘れました?)鵜川駅跡でお腹いっぱいだったから藤波駅を起点に廃線跡を辿る。