森林鉄道段戸山線は愛知県北東部にあった森林鉄道。段戸山の御料林から切り出した木材を輸送するために....

森林鉄道段戸山線

森林鉄道段戸山線 概要・歴史

森林鉄道段戸山線は愛知県北東部にあった森林鉄道。段戸山の御料林から切り出した木材を輸送するために....

森林鉄道段戸山線 画像

森林鉄道段戸山線(2020年11月)
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旧田峯駅付近に残るトンネル
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石積みが残る
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近くのスポット

森林鉄道段戸山線 ストリートビュー・空中写真

森林鉄道段戸山線 関連ブログ・参考リンク

https://minkara.carview.co.jp/userid/1796277/blog/41405975/
今日は、設楽森林鉄道鰻沢線跡を歩いてきました。歩きつないで6回目となります。今回は、旧豊橋鉄道田口線田峯駅と接続していた地点から上流へと歩いていきます。旧田峯駅付近に残るトンネル。区間唯一のトンネルです。廃線跡を利用してわずかな区間が遊歩道にされたらしいですが、トンネルのすぐ先で柵が崩壊してます。転がっていた宮内省帝室林野局の境界標。地中に埋まる基礎部分の大きさに驚かされます。遊歩道は右上へと登っていきますが、廃線跡は直進します。先を少し進むと、廃線跡は旧段嶺隧道の上で途絶えてしまいました。旧国道を拡幅した際に削られてしまったようです。山の斜面を登り、途絶えた先へと移動します。廃線跡が途絶えているのは100mくらいでしょうか。迂回した先には用途不明の大きなコンクリート柱?が横たわっていました。ふたたび路盤の跡が明確になってきました。森林鉄道に関係するものか不明ですが、多分、滑車のようです。宮内省の境界標が頭を出しています。沢が洗い越しのように流れています。下の国道との高低差は20mくらいでしょうか。路盤が大きく崩れています。振り返って見ると高い石積みの擁壁。ベンチが現れました。田峯城跡への遊歩道との交差点に出たようです。すぐ近くの沢に石積みの橋台が残っています。
http://www.tokai-mg.co.jp/shinrintetsudogaiyo.htm
     森林鉄道段戸山線の概要(一部「1世紀の年輪・名古屋営林支局編」より抜粋・関係者からの情報含む)   愛知県の北東部にあり昭和43年8月31日に廃止された田口線を起点とした森林鉄道は田口と田峰に施設され、当時の帝室林野管理局ではこの二つを総称して森林鉄道段戸山線と呼んだ。段戸山の御料林(旧憲法下で皇室所有の森林)から切り出す木材を三河田口駅と田峰駅まで運び、田口線で輸送するために作られた森林鉄道である。当時皇室の主な財源であった御料林の木材輸送を、非効率的な河川利用から、鉄道輸送に転換しようとしたためである。帝室林野管理局が田口線資本金の4割を出資しており、田口線は御料林を運ぶために作られた鉄道であったとは過言でないだろう。 上記の非効率的な河川利用は管流し(くだながし)と言い、木を川に流し川の流れで下流へ運び、下流の流れが緩くなったところで筏にして運ぶ方法である。一見乱暴な方法に見えるが当時は一般的だったようで、他の御料林でもこの方法が多く用いられていた。寒狭川でも田口線ができる前はこの方法で運んでいたが、文字通り狭く流れが激しい寒狭川では木の傷みが激しく悩みの種だった。こういったことから木材の鉄道輸送は必須であり、田口線の施設が求められたのである。 田口線の終点三河田口駅を起点とする森林鉄道は延長9462mの段戸山線田口本谷線(ほんたにせん)と、起点から2kmほどのところから西に分かれる延長5851mの段戸山線田口椹尾線(さわらごせん、椹後とも書く。地元人ではない人はさわらおと読んでしまうが本当はさわらごなのでご注意を)で構成されていた。本谷線の本谷とはここが本当の谷で、段戸山の裏にある谷を裏谷と呼ぶのである。このことは田口でも知らない人が多いので、ぜひ覚えておいていただきたい。今でこそ椹尾は無人になり荒れ果ててしまったが、私が小学生の頃はまだ椹尾には人が住んでおり、松戸椹尾(まつどさわらご)という通学団があり運動会では通学団競争というものがあったほどだ。ただ生徒が少ないので、いつもビリだったが。以前彼らは田口の小学校まであまりに遠いため、途中で行くのをやめ、椹尾近くの川で遊んでそのまま家に帰ることもあったと聞くが、私が小学生の頃...てきた。ほとんどが下りのため動力は必要なく、ブレーキをかけるだけで概ね始点まで辿り着くことが出来た。ブレーキ材は木の端材で作ったものだったため、ブレーキを掛けるたび木が焦げる匂いがしたという。言われてみれば確かにそうだが、教えてもらわなければ分からない事実だ。傾斜がなだらかな田口の手前、三都橋の津島神社あたり、田峰の手前あたりでは機関車が力を貸した。田峯では機関車の代わりに犬が引くこともあり、その犬を専門に飼っていた人もいたそうだ。他の森林鉄道では犬だけでなく馬が引いたという記録もあるようだが、分かる気がする。 森林鉄道では機関車が木材を乗せたトロッコを山から引っ張ってくるようなイメージがあるが、段戸山線ではそのようなことはほとんど無く、動力の無いトロッコに木材を積んで高低差を利用して始点まで帰ってくるのである。作業者へインタビューするまでエドも知らなかった興味深い事実である。このようなことができるのは、土場が始点より相当標高が高い場所にある場合に限られるであろうから、段戸山線ならではの仕組みだったのかもしれない。 当時の写真を見るとトロッコに溢れんばかりの木材を積んでいたが、出来るだけ多く積むのは出来高制だったからだったという。 しかしこのような仕組みが災いしてか、トロッコから誤って川に転落して作業者が死亡するという不幸な事故もあったという。現在の労働基準監督署が聞いたら目が点になりそうならおおらかな時代だったと言えそうだ。トロッコのブレーキは拍子木ほどの大きさの木で出来ており、一回下るために数個必要だった。作業者だった方によると、出発前、このブレーキ材を作ることも大事な仕事の一つだったそうだ。 土場よりさらに奥の伐採場所から索道で森林鉄道終点の土場まで降ろす際は、案外バラバラに吊り下げるので、土場でそれを整理してトロッコに積み込む必要があった。今のようにフォークリフトなどは無い時代だったのでトビを使ったマンパワーに頼らざるを得ず、その作業は相当大変だったようである。 話は変わり、エドは当時の作業者7人にインタビューしたがすでにほとんどの方が鬼籍に入ってしまった。したがって当時の作業者からの情報収集はこれ以上難しく、当時の段戸山線について新たな情報を得ることはできなくなってしまった。 残念だがこのあたりで筆を折ることにしよう。田口線トップへ 森林鉄道段戸山線の概要(一部「1世紀の年輪・名古屋営林支局編」より抜粋・関係者からの情報含む)   愛知県の北東部にあり昭和43年8月31日に
https://kirakuann.exblog.jp/27474444/
この5日、豊橋鉄道の「奥三河再発見ツアー」に設楽森林鉄道跡を訪ねる回があったので、参加してきた。当初申し込んだときは、催行決定の通知が来なく、やきもきしていたが、結果は43人とのことである。聞くところによると、2月中旬に六角精児さんが田口線跡を訪ねたテレビの放映後、参加者が一挙に増えたということである。テレビの力、侮れない。午前9時前、豊橋駅前の集合地でバスに乗ると、旧知の豊橋のKさんが一番前の席に居た。私の隣の席は、なんと千葉県流山市から参加されたYさんといい、森林鉄道ファンということで、私の属する名古屋レール・アーカイブスも御存知ということで、道中、いろいろとお話ができた。ほかにも漏れ聞くと、東京などから参加された人がかなりおられた。豊川駅前、本野ヶ原(ツアー用無料駐車場)に立ち寄り、参加者を乗せ、最初の休憩地である道の駅「もっくる」へ。ここでガイドのIさん(この方も旧知の方で、田口線50の会代表)が乗り、田口線の廃線跡を説明しながら、まずは、大草駅跡を訪ねる。
https://nishimiyaushiro.web.fc2.com/haisen/shinshiro/unagisawa_l1.html
鰻沢線は田口鉄道田峯駅前にあった竹桑田土場から製品事業所などの拠点があった団子島を経て国有林内の鰻沢へ延びていた18,800mの路線。 1931(昭和6)年に宮内省帝室林野局が開業させた頃は段戸山軌道と呼称されることが多かったようですが昭和5年度の工事図面には建設時の仮称なのか「竹桑田守義線」という名称も見られます。路線工事は田口鉄道が田峯まで開業する前に奥地から進められました。 1929(昭和4)年度は守義(鳴沢橋付近)~鰻沢、翌1930(昭和5)年度には残る竹桑田~守義が建設されています。 列車はガソリン・代燃機関車が空車引き上げを行い、木材を積んだ後は重力利用で各車がブレーキのみで下る乗り下げ運材が行われました。 御料林材輸送のほか民間貨物や沿線住民の便乗もあり、1937(昭和12)年度には団子島に帝室林野局の段戸パルプ工場ができたため原材料や製品輸送にも使われていたようです。鰻沢線と呼ばれるようになったのはいつごろからかはわかりませんが1947(昭和22)年の林政統一後は田峰森林鉄道(二級線)鰻沢線となっていたようです。森林鉄道としては比較的開けた地域を通る路線であり沿線には竹島、三都橋、豊邦など比較的大きめの集落が点在し道路整備が進められると1958(昭和33)年度に撤去されています。 鰻沢線は新城署内の森林鉄道としては最も早い時期の撤去でした。