大鹿村北川の廃橋は長野県下伊那郡大鹿村にある廃橋。鹿塩川に架かる。 戦前から戦後間もない頃に設置....

大鹿村北川の廃橋

大鹿村北川の廃橋 概要・歴史

大鹿村北川の廃橋は長野県下伊那郡大鹿村にある廃橋。鹿塩川に架かる。 戦前から戦後間もない頃に設置....

大鹿村北川の廃橋 画像

大鹿村北川の廃橋(2022年7月)
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現在の鹿塩川の流れからは外れている
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欄干が崩れかけている
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橋の一部ではなく、これで橋全体だったらしい
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上流側の損壊が激しい
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大鹿村北川の廃橋遠景(2023年4月)
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近くのスポット

大鹿村北川の廃橋 ストリートビュー・空中写真

大鹿村北川の廃橋 関連ブログ・参考リンク

https://minkara.carview.co.jp/userid/1796277/blog/46275493/
2022年7月2日土曜日、弟の誘いで山梨県北杜市高根町清里にあるレストラン「ROCK」へとドライブに出かけてきました。普段ですと中央道小淵沢ICまで高速を走って、そこから山梨県道11号「八ヶ岳高原ライン」で清里へと向かうところですが、今回は弟の希望で中央道松川ICで下りて長野県下伊那郡大鹿村へと向かい、そこからは国道152号「秋葉街道」で諏訪盆地を目指すルートを取りました。大鹿村で国道152号へと入り北上。大鹿村北川を走行していたところ、弟が「川の中に壊れた橋が見えるぞ。」と言い出したので停車。
https://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/jimusyo/office/data/kuroyuri_115.pdf
https://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/jimusyo/office/data/kuroyuri_115.pdf
https://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/think/heritage/pdf/013.pdf
北川集落跡北川集落跡土砂に埋没した北川集落土砂に埋没した北川集落 information □ アクセス駒ヶ根ICから25km  車→50分□ 所在地大鹿村鹿塩西山の地すべり末端、鹿塩川右岸にある記念碑現在も三六災害時のまま残る橋の跡諏訪湖伊那市駒ヶ根市飯田市多いときには110戸もの家があったというが、昭和36年の災害(三六災害)当時は39戸だった。三六災害時には、村人は集団キャンプをして救助を待った。1.5km程北に中央構造線の北川露頭がある。北川地区北川分校 鹿塩小学校北川分校は、土石流に襲われ、いち早く破壊されてしまった。 一方、大花沢からの土石流で鹿塩川の河床が上昇し、川沿いの民家は土砂に埋没してしまった。分校は1962(昭和37)年に閉校。北川集落はこの水害を機に、1963(昭和38)年に廃村となった。大鹿村の鹿塩川沿いにあった北川集落は、三六災害が発生した1961(昭和36)年6月27日、豪雨による土石流で39戸の民家と北川分校が土砂の下に埋まった。さらに、29日には西山が地すべりを起こし、鹿塩川を一時的に堰き止めた。鹿塩川に架かっていた橋の取り付け部分が流され、コンクリート部分だけが門のように残る。(国土地理院の数値地図25000(地図画像)を使用)0 250 500 m152大鹿村役場橋跡秋葉街道北川集落跡鹿塩川分杭峠大花沢きたが わしゅうらくあと
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/20.Nagano/Oshika_Kitagawa.html
      ◆北川(きたがわ)※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「大河原」(昭和27.9)および同地形図「市野瀨」(昭和34.12)を使用したものである所在:大鹿村鹿塩(かしお)地形図:鹿塩/大河原形態:川沿いに家屋が並び、山の斜面に家屋が散在する離村の背景:災害標高:1,000~1,100m(東斜面は1,200~1,500m)訪問:2013年11月  大字鹿塩の北部、鹿塩川沿いにある。 村誌によると、当地の開拓の始まりは明治7年。鹿塩村有林であった北川地籍を松本市の材木商が買い受け、10年契約で伐採作業者を入山させた。のち2社がそれぞれ10年ずつ、計30年間の伐木事業が行われた。伐採跡地の斜面を開墾し定住する伐採従事者が現れ始め、さらに明治12、3年頃からは木地師が入山し、定住。次第に戸数が増加した。明治18年頃には20戸程度(木地師13戸のほか、山師・農家)、同23年には25戸となった。しかし昭和36年6月の豪雨により、40戸全戸が移住。以下は同書より学校(鹿塩小学校北川分校)の沿革。 明治10頃 小椋氏宅の一室を借り受け、寺子屋式の授業を開始 明治31.4 北入尋常小学校の分教場となる 大正5 鹿塩尋常小学校の分教場となる(北入尋常小学校が鹿塩尋常小学校の分校となったため) 昭和36.6 大水害により校舎流出。児童は7月より本校へ収容 昭和37.4 廃校 現在沿道で見られる家屋は皆無で、枝道の先に1軒確認したのみ。屋敷跡もそれほど多くは見られない。最近の地図で右岸に記されている寺院の記号が見られるが、これは未調査。また時間の都合で東斜面に散在する建物も訪問せず。地区内には災害復興記念碑(写真2)が立ち、かつての大水害を偲ばせる。また神社そばの「頌徳碑」(写真6)は分校校庭にあったものが水害の際に流失し、のち発見され再建されたとの由。教諭(井上氏)の偉業を讃えたものと思われる。なお付近は中央構造線の露頭として名が知られているようで、北川露頭の案内がある。 写真1 蚕養神写真2 災害復興記念碑写真3 祠写真4 何かの跡写真5 神社写真6 頌徳碑と祠写真7 屋敷跡写真8 甲子塚・庚申塚・馬頭観音