沼の上鉱山 関連ブログ・参考リンク
http://hikyoutaki.blog.fc2.com/blog-entry-103.html
沼の上鉱山鉱口 · 沼の上鉱山口 立入禁止の看板はしっかりあり、バリケードも頑丈。 鉱山色の沢はここからも流れ出てました。林道奥にも何かありそうですが・・・ ~昭和34年に廃鉱~ 同じ市内の鴻之舞鉱山と同じく金、銀を中心に採掘され
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top271.html
笹薮を越えて暗い坑口へ 紋別市はオホーツク海沿岸のほぼ中央に位置し、 東洋一と言われた鴻之舞金山が昭和48年に閉山したものの、重要港湾に指定された紋別港はロシアとの海産物貿易の商港として賑わい、酪農と流氷観光も活発なオホーツクの中心的ツ黴
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/01-2.Doto/Monbetsu_Numanoue.html
沼の上(ぬまのうえ)鉱山 ※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「上渚滑」(昭和48.3)を使用したものである. 所在:紋別市志文(しぶん) 地形図:志文/上渚滑形態:川沿いに家屋や施設が集まる 離村の背景:産業の衰退標高:約100m
http://haikouinspect.web.fc2.com/haison/numanouekouzan.html
紋別市沼の上鉱山平成23年6月訪問紋別市最東部湧別町との境界線 シブノツナイ川沿いに沼の上の地区から市道を南方 奥へと進んでいく辺りは酪農家が点在している入口の国道238号線から6キロほどだろうか 数百メートルおきに確認出来る酪農家の施設を確認しながら右手に数軒の古びた建物が並ぶ 開けた敷地が見えてくるその奥に この大きな木造の建物が残されている志文小学校昭和57年3月31日閉校4年ぶりに訪れた校舎は残念ながら玄関横が大きく崩れ進入路には「危険 立入禁止」の看板が下げられていた道路を挟んで酪農家の方が住んでいるがその方がこの志文小学校の敷地や校舎を利用している様子校庭跡地には牛舎なのか大きな施設が建設中であった志文小学校の校舎も近いうちに解体されるのかもしれない志文の地区から奥へ5㌔ほどの位置にかつて沼の上鉱山があった以下紋別市史より戦後紋別市内で経営された金・銀鉱山は鴻之舞鉱業所と沼の上鉱山の2鉱山である沼の上鉱山は大正5年鉱山が発見され昭和3年三菱金属鉱業の経営にとなる昭和7年から20年までの間 粗鉱月産2000㌧の出鉱を続け これがこの鉱山の最盛期だった昭和33年からは探鉱に努力を傾注したが 逐年高品位鉱の鉱源発見の確立が衰退するばかりで鉱源が枯渇する様相となり広範囲に渡って探鉱が進められたついに安定鉱脈を発見するに至らなかった写真は志文小学校跡地から1㌔ほど 舗装道路がここから途切れる場所である進んで行くと1軒の廃屋とその先に廃サイロ ここら辺までは農業による入植があったのだろうあとはこのように山中の風景が続くのみであるご覧のように大きく開けた場所もある沼の上鉱山は正面の山の裏手ではないだろうか更に進んで行くと植林されたかのように木々が整然と並んでいる風景に変わる最盛当時 採掘していたのは2鉱区総坑道延長22・5㌔に及び社宅 購買会 集会所 理髪所 小学校などと整えられた集落は名寄本線から10㌔のへき地ながら 別天地をなしてい...あった34年11月鉱山は閉山となり従業員とその家族は下川鉱業所に移ったため学校もその12月に閉校となる紋別市はほぼ全ての廃校跡地に記念碑を建立しているしかしこの上志文小学校の跡地だけには それを示すものを全く何も作っていないそのため住宅程度の小さな校舎だった上志文小学校がどの位置にあったのかは定かではない昭和34年10月ついに鉱源も尽きて昭和3年以来含有金量1405kg同銀量9万4149kgを生産した 沼の上鉱山は休山し従業員は同じ三菱金属下川鉱業所に移り施設は全て撤収されて あとは一望の無人の草地と化してしまった以上紋別市史より抜粋無人となったこの沼の上鉱山の町 現在は自然の風景を残すのみとなっている鉱山街があった辺りを過ぎると 北側に分岐する道があるこの奥に地形図では鉱山の記号がある何か痕跡でもないかと折角なので確認しに行こうと思う訪問時はこの先で木々の伐採か何かの作業をしているようであったこんな所でも作業をしているここからは数百メートル先だと思われるが作業の邪魔をしそうで大変残念ながらここで断念してしまった何とその奥 鉱山跡の写真を手に入れる事が出来たいつも大変お世話になっているK・T様の調査時の撮影である以下K・T様より入口から100メートルほどの砂防ダムまでは道がしっかりしかしその先 ダムから上は草木で道が発見できずやむなく横の斜面に残る廃道の跡を通り 奥に200メートルほど進み 土管が見えたので急斜面を降りた 近くには土管が散乱 標柱があり 「38年3月27日 志文鉱山川」とありましたさらに50メートルほど荒地を歩くと ぽっかりと崖に坑口が開いていました封鎖されてい ないのに驚きましたその鉱山川 どうやら坑口からの湧水により川ができているようです坑口の横に台形の整地した跡があり 上に上ると下にコンクリートの建物跡がありましたもっとゆっくりしたかったのですが 車を降りてから熊よけに鈴を打ち鳴らす 叫ぶで疲れ早々に退散しましたそれがこの坑口の写真である大変貴重な資料を提供していただたK・T様本当に感謝ですbackPowered by FC2ホームページ
https://www.hro.or.jp/list/environmental/research/gsh/publication/map/map04/area/explanation_leaflet_pdf/abashiri15.pdf
沼の上鉱山(太田:l:l 1951; 高沢, 1956; 大村, 1957; 資源・素材学会, 1990; 通商産業省 199Gb)位置 シブノツナイ川上流の左岸支沢に位置する.沿革 大正 (1917) に露頭発見後,大正 12 年(1 923) に探鉱が開始された.昭和 年(1 928) に二三菱金属鉱業が買収し操業を開始した.昭和 年(1 932)~昭和20 (1945) の聞が降盛期である.昭和25 年(1 950) にシマララギ鉱脈