イワオヌプリ鉱山(岩雄登硫黄鉱山) 関連ブログ・参考リンク
http://nonintheair.blog78.fc2.com/blog-entry-2625.html
初夏にイワオヌプリ鉱山の探索に行ったレポートをします。最初は、イワオヌプリ登山でも立ちはだかる、急登から。登山初心者のころは、この階段が一気に登れなくて、途中で休んでいたなあ。どれだけ体力がなかったんだ…。今では、楽々ではないけれど上まで登れます。アカモノが可
http://tafur.exblog.jp/16669991
少しは観られる所もありましたが...紅葉は残念。半端な写真で少しトリミング。完全な鏡になっていないところも痛い。鉱山跡で水路をちょっと探検。エゾライチョウさん逃げないで~10月の三連休、初日の8日は喜茂別岳・中山湿原へ。そして9日はニセコへ紅葉見物。まずはニセ
http://ameblo.jp/vanilala-asamin/entry-11385045499.html
それは2年ほど前のこと。北海道新聞の朝刊で「イワオヌプリ硫黄鉱山」の記事を見つけなんすかソレーーーと大興奮し仕事中に胡蝶蘭さんの隣のデスクでまばたきも忘れPCで検索しまくった日々。まだまだ多くの謎に包まれている【イワオヌプリ硫黄鉱山】80年以上前の話みたいだけ
http://blog.goo.ne.jp/sakag8/e/12ed5a4aac8f134b33a30d7cc0481719
今日のメインは、江戸末期から昭和12年まであったという岩雄登硫黄鉱山跡の遺構探しだった。そのついでに、早朝の鏡沼探訪と小イワオヌプリ登頂も果たした。この硫黄鉱山跡は、江戸時代から採掘はされていたようだが、明治初
http://members3.jcom.home.ne.jp/bighorn3/kouzann/nisekoiowkouzan/nisekoiowkouzan1.html
ニセコ岩雄登硫黄鉱山(イワオヌプリ)江戸期の採掘ニセコ山系の開発は、硫黄の採掘からはじまっている。岩雄登硫黄鉱山発見の年代は不詳であるが、北海道において硫黄がはじめて採掘されたのが、天明4年(1783)の恵山寛政9年(1795)の登別であったから、岩雄登鉱山も
http://blogs.yahoo.co.jp/kenji_yoshi_onsen/11172803.html
ニセコパノラマラインの途中にある大谷地から五色温泉や旧ワイススキー場に至る登山路の途中にイワオヌプリ鉱山跡地があります。明治初期から昭和初期まで栄えていたそうで、最盛期には200人近い人々が生活していたそうです。昭和12年には閉山になりました。ここに行くには大
http://mtriverw.exblog.jp/20643421/
イワオヌプリに登る前に分岐を大沼へ向け進み、倶知安町で尻別川に合流する硫黄川の源頭部へ向かいます。イワオヌプリと1039m峰(ポンイワオ)のコルを越え少し下ると、こんな景色が広がります。少しルートから外れ、探索してみます。降り口には、石畳と水路の跡、建物の柱?
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top831.html
ニセコ連峰は標高1309mのニセコアンヌプリを頂点とする、 マッカリヌプリ(羊蹄山)、昆布岳に囲まれた高原だ。 イワオヌプリ ニトヌプリを 硫黄鉱山跡だ。 鉱山跡 白い岩の転がる丘を登る。 硫黄鉱床は強酸性で植生が戻らない。 廃坑跡 木材が散乱する。
http://hikyoutaki.blog.fc2.com/blog-entry-28.html
ニセコにもかつて硫黄鉱山がありました。江戸時代から掘られ北海道の重要産業を担い、昭和12年閉山になるまでは、かなり隆盛を極めたそうです。平成21年には、近代化産業遺産にも選ばれ後世に語り継がれていくことでしょう。写真は、途中にあるニセコ大沼とイワオヌプリです。
http://sakag.web.fc2.com/ioukouzan.htm
岩雄登(イワオヌプリ)硫黄鉱山跡探訪 <五色温泉からの沼巡りコース> 単独 12、10、7江戸末期から昭和12年までのかつての栄華の痕跡や遺構を探して歩いた岩雄登硫黄鉱山跡登山地 点下山8:058:559:30---五色温泉小イワオヌプリ硫黄鉱山跡探訪(1時間15分)11:45----10:45----[1:25]所要時間[1:00]12:00 五色温泉(入浴)13:30 倶知安風土館GPSトラックログ <かつて岩雄登硫黄鉱山が栄華を極めた一帯を見下ろす> この「岩雄登(イワオヌプリ)硫黄鉱山跡」は、江戸時代末期(1800年代)から採掘され、明治3年から明治10年まで、函館の商人泉藤兵衛と村田駒吉が開坑し、会社を興している。永年社に譲渡し、明治19年に三井物産に譲渡され、その後。昭和12年まで続いた。最盛期は大正6~7年ごろで、工事関係者も含めて300人ほどの関係者が働き、学校も診療所もあったという。 場所は、イワオヌプリから大沼への沼巡りを下って行くと硫黄川に出るが、その川沿い一帯。昨年の秋に、沼巡りをした際にここを通った。紅葉が非常にきれいだったこともあり、この秋に鉱山跡の遺構探しをメインに再訪しようと決めていた。最盛期のころ?の写真~煙が上がっている建物は精錬所らしい 硫黄川上流部左岸高台の平坦地・・・特に目立った遺構なし硫黄川の下流部・・・多くの遺構があった硫黄川を遡って行ったら川がトンネルになっていた反対側へ抜けている。その先に層状の鉱床が見つかり、そこを深く掘ったので、川底が下がり、トンネルで潜らせたようだ。地形図で地形を見ると、掘った跡や川の流路を変えたのがよく分かる。川の両岸を石垣で組んでいる。現在はこの右側を川が流れているが、当時はここが川だったようだ(写真に写っている地元の方が教えてくれた)煉瓦を何層に積み上げているが・・・?あちこちにこのような煉瓦が落ちている山肌の下から湧き出る硫黄を含んだ湧水手水鉢と奥の方の建物跡建物の土台?建物の杭石組みの小さな川抗口跡?(ほとんどは露天掘りだったはずなので違うか?)上部から川のトンネルの反対側の地形を見下ろす。鉱床の掘られた様子と川がトンネルになっているのが分かる。「北海道山紀行・目次」へ HOME
http://www.hotetu.net/rivertunnel/210809iwaonupurikouzan.html
更新日時 2022年02月09日 イワオヌプリ鉱山の川廻し:イワオヌプリ鉱山(岩雄登硫黄鉱山)は北海道虻田郡倶知安町にあった鉱山。イワオヌプリ山(標高1,116m)の北西部に位置。江戸時代末期から採掘が始まり、明治に入り本格的な硫黄の採掘が始り、函館の泉藤兵衛氏、村田駒吉氏が経営を始めるも不振、1886年(明治19年)三井物産株式会社に経営譲渡。1919年(大正8年)には倶知安駅裏から鉱山までの索道が整備された。最盛期は300人近い人々が生活し、学校や診療所、食堂や社宅などが立ち並んだ。1937年(昭和12年)硫黄鉱山を閉山。川廻しは河川の流路をトンネルで変更・短絡化する工事で層状の硫黄鉱床が見つかり、そこを深く掘った為に川底が下がり川廻しを行った。①大谷地の駐車場に止めてここからスタートします。天候がいまいちです。①奥に見えるのがイワオヌプリ山です。この湿地帯を進みます。①大谷地の木道を行きます。②大谷地の木道を行きます。③大谷地を抜けてここから山道に入ります。④この辺が最高地点の峠付近。⑤大沼に出ました。湖岸沿いを行けるかと思いましたが駄目でした。⑥大沼沿いの登山道です。⑦イワオヌプリ鉱山跡への登山道です。⑧硫黄鉱山跡。⑧硫黄鉱山跡。⑨登山道から河川(硫黄川)に降りる場所。⑨登山道から河川(硫黄川)に降りた場所。⑩硫黄川を遡ります。⑩硫黄川の左右に町並みがあった。⑪硫黄川を更に遡る。⑪硫黄川を更に遡る。⑫河川隧道(川廻し)に到着。⑫河川隧道(川廻し)下流側。⑫河川隧道(川廻し)下流側。⑫河川隧道(川廻し)に5m程入ったところ。⑫河川隧道(川廻し)に10m程入ったところ。⑫河川隧道(川廻し)に10m程入ったところで行き止まり。⑫河川隧道(川廻し)に10m程入ったところで下部から水が流れ出てきている。以前は通り抜けられたらしい。出口の崩落部分を撤去して水位を下げれば通れるかも知れない。Copyright (C) 2008-2022 hotetu.net All Rights Reserved外部から直接リンクで飛んできた方は右ホームページリンクへ http://www.hotetu.net/ 歩鉄の達人出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『倶知安町』を掲載」