大蔵鉱山(大蔵村) 関連ブログ・参考リンク
http://www.ic-net.or.jp/home/rinet/yookrpookrkuznat.html
大蔵鉱山(金山鉱山)跡所在地山形県最上郡大蔵村肘折大蔵鉱山跡は大蔵村の南南西方、肘折温泉の西側山中にある。戸沢村との町境にある志賀山(721)の南麓で、坑道から排出したズリ山や精錬所跡と思われるところも確認できる。昭和34年(1959)、掘り尽したので閉山にな
http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/ookura/ookura.html
大蔵鉱山(山形県大蔵村)山形県最上郡大蔵村金山山形県新庄市の西方に湯治場で有名な肘折り温泉がある、この温泉街の外れに大蔵鉱山跡がある。現在は、すすき野原になっており精錬所跡に煙突が残っている。産出鉱物銅・亜鉛写真をクリックすると拡大します鉱山全景立入り禁止の看
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東北の山深い地に、かなり大きな鉱山が有ったと聞きつけ、探検に来て見た。幹線国道から1時間位走っただろうか?山中に突如として現れた、近代的なループ橋。その先は、歴史ある温泉地になっていた。町を抜け、さらに山奥へ進むと、鉱山跡に着く。何も無い…ここで良いのかな!?
https://ameblo.jp/lascelles2/entry-12257184664.html
先月行った埼玉飯能攻め…ッッ!!大蔵山にかつてあったと言う大蔵鉱山に行った時の事を話そうでは無いか!!何でもこの大蔵山は山登りをする人にも有名な山らしく、この日も駅から何人かの人が向かって歩いていた。駅からちょっと距離があるが、登る人にとってはそんなものなど屁
https://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top26200.html
大蔵鉱山のからみ煉瓦を歩く山形県大蔵村 山形県は180の温泉地を有し、その温泉密度は全国第一位だ。大部分が鄙びた湯治湯の風情を保ち、県内外からの観光客も多い。ただし現代的な高級志向とは一線を画しており、温泉の保険的・福祉的開発を奨励する県の体制に向けて温泉地の近代化のために実情の調査が行われた。これは1960年代に東北大学が行った湯治客のアンケートと、1990年当時の保養・療養目的の温泉客800名程度のアンケートを比較するものだ。住所、湯治の目的、日数、1日の入浴回数、効果などについて調査を行い、温泉地訪問の傾向を把握するのが目的だ。その結果、県内来訪者が80%、再訪が多くいわゆる「なじみ客」であること、1泊遊興型の団体客は少なく、半数が70歳以上であった。30年前のアンケートと比較すると、高齢化が進む結果となった。「痛みの軽減」のために訪れる客が多く骨折には肘折、中風には湯田川などの古来からの伝承が残っている結果となった。10日以上の長期滞在者は減少、2泊程度が増加、1日の入浴回数も減少し、効能は十分との回答もあった。結果的に来訪者の高齢化、常連のリピート、高級感よりも街並みや環境保存の希望が多い内容となった。肘折温泉は今から約1,200年ほど前に発見、老僧がかつて肘を骨折、この湯でたちまち完治したという逸話があり、その後、近隣の農家が疲れを癒す温泉地となったと言われる。大蔵鉱山はこの肘折温泉の近隣にて、藩政時代(1774~)に金鉱山として発見、しかし明治36年(1903)までは休山を経てその後再開発される。明治40年代には銅鉱山として溶鉱炉が設置され盛況となる。大正2年(1913)に古口駅までの12.6kmに索道架設、在山人口3,000名となる。しかし大正7年(1918)までの第一次大戦により銅価暴落が誘発、再び休山を迎えたが、昭和27年(1952)から東邦亜鉛(株)の所有となり活況となる。旧坑の再開発、選鉱所の建設等が行われたが、その後の鉱量枯渇により昭和34年(1959)8月、閉山を迎える。今回は歴史ある銅鉱山の探索だ。点在する鍰石を見ながら、遺構を訪ねてみたい。からみ・盗み山・出羽三山・・・鉱滓トップページへ
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大蔵鉱山を訪ねる 平成16年7月31日 今、山形県大蔵村肘折温泉に行くと避暑と疲れを癒すために全国から大勢の人が 集まっている様子にぶつかります。幸せな様子にこちらの心も和みます。 肘折温泉は深い火山カルデラの底に位置していることは温泉に入る手前の高台から 下を眺めると良く分かります。 温泉の周囲は高い山に囲まれておりここが火山の噴火口の底であることは明白です。 このような地形から、別項で掲示しているように岩体発電所が試験的に設置されたのです。 とにかくここの地下にはマグマが存在しているのです。 このような地形には各種の鉱石が多く含まれているために多くの鉱山が開発されました。 肘折温泉には大蔵鉱山が存在しました。もう少し南の月山と葉山の間には永松鉱山や見立鉱山、 幸生鉱山等が散在しており鉱山で働く多くの人で賑わっていたのです。 むしろ昔は山は賑やかだったのです。 大蔵鉱山は温泉の西2キロの地点にあります。温泉からは近いので私は簡単に見つかるだろうと 出かけたのですが藪漕ぎに近い状態に草木が生い茂っており見つけるのに苦労しました。 さて、当鉱山は金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱が算出したと記録にあります。 発見されたのは明和元年とありますが西暦でいつになりますかね。 大正8年までに金125キロ、銅5896トン、銀1192キロが産出したとのことです。 大正9年に一時閉山する時点で従業員は3000名を越えていたそうですから賑やかだったでしょう。 昭和20年にふたたび閉山となりました。 昭和27年に東邦亜鉛が採鉱再開しましたが昭和35年に完全閉山となっており現在に至っております。 これからのレポートは私が平成16年7月31日に探訪した時のものです。 温泉を月山側に抜け出て森林帯に入り、そこから抜け出すとそこが次の写真の場所となります。 この場所がなかなか分からずウロウロしました。夏のアツーイ日でした。 後で知ったのですがこの正面の山の5キロ向こう側があの有名な秘湯今神温泉なのでした。 正面の森に入るとやがてつぎのような藪道になります。 ...ージが浮かびました。 ここに鉱滓があるということは溶解炉等はこの上にあることになりますから、山を見渡し 大体の見当をつけて登っていきます。この辺が未知物体探しの楽しい瞬間です。 突然陥没穴が出てきます。結構深く落ちたら足をくじきそうです。慎重に進みます。 やがて目の前に森の中から溶鉱炉の煙突が現れてきました。丁度横溝正史の小説「三首塔」の中で主人公が三首塔にたどり着いた時の光景が頭に浮かびました。誰もいない世界に突然このようなものが現れてくると結構ぞっとしますよ。炉の前の広場には建物の基礎だけが残っておりました。 壁は頑丈な煉瓦造りで今もきちんと残っております。さて、今回は案内人も連れずの単独行ですので私が行動できる範囲はここまででした。おそらくこれ以外にも多くの遺跡が残っているのだと思いますが今回は先にいくことを断念しました。午後2時を過ぎており家に4時まではどうしても帰らねばならない。高速使えば何とか帰れるかなという時間ですのでここで戻ることとしました。帰りに振り返ってみると鉱山のボタ山の痕跡が次の写真のように見えました。中央の部分で台形状になっているところがそうです。ここで昔3000人以上の人が働いていたのかと考えると感無量の心境になります。 さて、本論はここからです。 私は県外のこのような鉱山跡地を数多く見てきました。 県外の地はどこも見事に鉱山施設を残して活用して再生し、再活動しています。 秋田県の尾去沢鉱山、小坂銅山、宮城県の鶯沢鉱山、新潟県の鳴海金山 等多くが立派に再出発しているのです。 それに比べて山形県は何も残っていない。これは何なのか、怒りを覚えます。 結局山形県は資源掘り出しの場所貸しだったのですね。利用が終わればはいさようならとなり後には何も残らない。まったく悲しいです。最も悲しいのはその地で働きに働いた人たちであるはずです。その方たちに何も残せなかったのです。 お願いですのでこれからは壊さず、残し活用する方向で考えてください。 心配なのは奥羽線板谷、大沢の巨大スノーシェッドの行く末です。 早くも撤去の声が出ているのですが何とか残しましょう。 何も無くなれば山形県民が笑われるのですよ。多くの心残りを感じながら肘折温泉を後にしました。 戻る
https://yumegurance.goemonburo.com/We_Love_Hijiori_Onsen_4_kouzanrekishi.htm
肘折温泉の歴史は、一方で鉱山の歴史でもある。 大蔵鉱山は大蔵村の南南西、肘折温泉の西側山中にある戸沢村との町境にある志賀山(721)の南麓にあり、大蔵鉱山は、1764年から1780年代(明和年間)新庄藩主戸沢氏が、金鉱採掘の目的で初めて事業をおこしたのが始まりと言われている。大正2年、この鉱山と古口駅間に延長8里半(26km)の単線式索道を架けて貨物の運搬に利用している記録があり、この時の在山従業員は、3,000人を数えたと言われる。索道建設に合わせ、柳渕に発電所が設けられ、索道の動力になったほか、肘折に至る道に街灯が灯った。肘折に街灯が灯る5年も前だった。