http://netishim.seesaa.net/article/418323792.html
冒頭にも述べた通りで、今回は治田峠、はたまた銚子岳に登ったろう、というようなことは考えていませんでした。で?治田鉱山跡?いやいや、これですよこれ。わかりますよね。「青川峡」「治田鉱山跡」こういうことですよ。これが驚きの・・・、いや正直今回行ってみて本当に驚きま
http://www.yabukogi.net/viewtopic.php?f=4&t=2615
青川周辺はヒルのメッカで、やつらが活動するまえに治田鉱山探索に出かけることにした。新たに堰堤を作っているようで、ゲート前の青川駐車場には重機が置かれ駐車できない。しかたがないので、少しもどって青川峡キャンピングパーク前にある大鉢山駐車場に置いた。林道を歩いてい
https://blogs.yahoo.co.jp/uttchi_3/64791707.html
さらにその奥にある治田鉱山跡を見に行くには檜谷に入って滝を2つ越えて行く。六ショウ滝と仙右衛門敷は治田鉱山の中でも代表的なものと言われる。ここを越えるのは滝の淵をへつったが落ちたら只では済まないので慎重に越えた。仙右衛門敷・・・7年前とほとんど変わっていなかっ
https://www.dream-godai.com/post/%E6%B2%BB%E7%94%B0%E9%89%B1%E5%B1%B1%E3%81%B8%E8%A1%8C%E3%81%8F%EF%BC%882019%E5%B9%B47%E6%9C%888%E6%97%A5%EF%BC%89
2019年7月8日、治田鉱山の麓まで行ってみた。現在は鉱山鉱口までの山道が山の崩壊などで通行止めになっているようでした。残念だが登山口の案内板を撮影して帰った。この奥の山に五代友厚、藍子の鉱山開発の証があるのだが!この地は、五代藍子が1918年(大正7)、同市北勢町の滋賀県境に近い治田(はった)鉱山の掘削権を取得した。鉱区登録の名前は「五代アイ」であった。父・友厚は1874年(明治7)に四日市の水沢地区で銀などの試掘を申請しており、この地方での父の新鉱脈発見の熱意を引き継ごうとしたのではないかともいわれている。五代藍子は1876年10月に誕生。正妻の子ではないが友厚の次女として育てられた。生涯独身で1965年に88歳で死亡。2016/02/22 朝日新聞(三重県)記事によるとアイさんは、当時のお金で20万円を投じたが、結局、思うような成果は出ないまま亡くなった。地質学者や出資者が反対するなか、最後まで「下部にはきっと大きな鉱脈がある」と言っていたという。また当時、アイさんをご存知の方は「いつも男のような作業着で、なよなよとしたところがない人だった。『お父さんが女性にもてる人で母が苦労したから結婚はしないの』と話すのを聞いたこともある」と話している。