登川炭鉱は北海道夕張市にあった炭鉱。 1909(明治42)年に開鉱、その後三井登川鉱山として稼行する。1...

登川炭鉱

登川炭鉱 概要・歴史

登川炭鉱は北海道夕張市にあった炭鉱。 1909(明治42)年に開鉱、その後三井登川鉱山として稼行する。1...
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登川炭鉱 ストリートビュー・空中写真

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http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top20651.html
三角屋根のホッパー新夕張駅は昭和56年(1981)10月、石勝線開業と共に、『紅葉山』から改称された。旧駅跡は駐車場とバス乗り場となっている。 国道を西へ向かうと登川市街地だ。JR石勝線が高架で跨ぎ、国道もバイパス化、街は静かだ。 かつてのメインストリートには家屋が並び、営業はしていないものの、呉服屋の看板もあり、繁栄が偲ばれる。 北海道物産センターの裏手には、消防団施設があり、裏手には火の見櫓がある。 火の見櫓は火災の発生を見張るための塔で、半鐘を吊るしてその叩き方の緩急と回数などで、火災の遠近などを知らせるのに利用された。 夕張線旧登川支線の廃橋である。紅葉山~登川7.6㎞は三井鉱山専用線として開業、昭和56年(1981)に廃止されている。 付近には登川神社がある。明治期に炭鉱事故が多発し、山神を鎮めるべく建立された由緒正しい神社だ。 神社の裏手にあるのは、大正2年(1913)完成の北炭真谷地炭鉱楓坑発電所跡だ。石炭ガラス工芸館という観光施設として運用されていたが、現在はご覧の廃墟と化している。 そこから北に進むと、楓坑時代の本卸水平坑口が密閉され残っている。ただしこれ以上の接近は不可能。 なぜなら接近するための道路橋下に、巨大なスズメバチの巣ができている。気づかれないうちに退散だ。 付近の道路を遡ると北炭真谷地炭鉱楓坑時代の遺構がある。明治35年(1902)開坑の北炭楓坑に対し、明治42年(1909)に更に奥地の三井登川炭鉱が開坑した。 この楓坑は北炭系列とは言え、当時の北炭は三井財閥の傘下にあり、楓坑も広義の三井の掌握下にあったと言える。 積込施設の上部に登ると、こちらも密閉された坑口が残る。ガス抜きの配管が接続している。 密閉された坑口に残る銘板。坑口名:楓本卸斜坑々口、完成日:昭和62年11月10日、会社名:北炭真谷地炭鉱(株)。 坑道内からのメタンガス等を排気する配管だ。太さは80A程度で、ビクトリックジョイントで接続された、ゲートバルブが据付られている。 坑口付近の高台から楓坑発電所を望む。2棟が並んだ切妻屋根が特徴的だった。後半は楓坑事務所、そして健康保険組合事務所としても活用された。 付近には未だ楓炭山橋という名称も残る。昭和34年(1959)竣工の古い橋だ。ここから山中の登川坑に向かう。 楓から西へ進む。付近には炭住街や学校が犇めいていたはずだが、現在は無人の原野が残るだけだ。 付近の滝沢川には煉瓦製の橋台が残る。登川支線の廃線跡だ。更に山中に向かう。 川の上流域に達すると、廃橋や盛土が辛うじて残る。しかし道東自動車道の建設に伴い、付近の景色は一変したようだ。 山中に残る数少ない遺構だ。登川坑の閉山は昭和28年(1953)と、非常に早かったため、遺構の残存も少ないようだ。 かつて付近に残存していたホッパーである。三角屋根の個性的な形状をしていた。現在は高速道路の工事に伴い消滅してしまった。 中央の空き地がかつての楓駅の跡である。左が石勝線の本線。右が登川支線であった。 楓駅跡付近に残存する炭住の廃祉だ。高速道路の建設、そして廃線。遺構の多くはその時代の変化に埋もれつつある。 戻るアンカーボルトトップページへ
http://rurounotami.la.coocan.jp/tanto_noborikawa01.htm
 登川・楓炭鉱編 12004年10月訪問 明治42年に開鉱した登川炭鉱は、国鉄夕張線(現JR石勝線)の孫支線である登川支線(明治40年開通)の終点、登川で開発された炭鉱である。北炭により長期に渡って採掘が行われ、登川は優良炭を産出する炭鉱として知られた。登川炭はカロリーでは夕張炭に及ばないものの、乾燥していてクリンカーが出来にくく、蒸気機関車の乗務員には好評だったという。枝線の始点である紅葉山(現新夕張)から登川間は全長わずか7Km程だが、その大半は25‰勾配のうえ、随所に200Rクラスの急カーブもあり、夕張線の難所のひとつだった。昭和50年まで、蒸気機関車D51牽引による石炭貨物列車を見ることが出来た最後の線区(夕張線)でもある。その後の石炭産業は斜陽化の一途を辿り、登川鉱は廃止され明治35年に開鉱した隣の楓鉱のみ採掘が続けられた。楓鉱はのちに北炭夕張で最後まで存続した真谷地鉱に併合され、真谷地炭鉱と同じく昭和62年に運命を共にした。楓地区より谷筋の林道を走ってゆくと小さなホッパーが現れた。コンクリートの三角屋根をした珍しい形である。上屋の木造部分はとうに朽ちているのだろうが、構造的に右側斜面より石炭を落とし込んでいたと見て取れる。狭い谷沿いのレイアウトに苦心の跡がうかがえる。辺りは道東自動車道の橋脚工事の現場となっており、近い将来このホッパーも取り壊されるかもしれない。(道東自動車道の工事の進捗により、土砂に埋もれ現在消滅)幾星霜の刻が流れたのだろう。このホッパーは古代遺跡のようなオーラをまとっている。片側斜面のみ取り付けられたシューターを下から覗く。上部より見下ろすとこんな感じ。この斜面から石炭が落とされた。近くには原炭ポケットだろうか遺構が残されている。(1枚目左奥)しかし登川炭鉱の残存物はホッパーとこれのみであった。専用線の跡にしてはレールで出来た華奢な橋梁。やはり別の用途のものか。赤レンガの橋台が残っていた。登川支線の跡だろうか。専用線跡と思われる廃道。近くには草木に覆われた廃公園が残っている。遊具が雑草から頭だけをだし、無常を感じさせる。エゾシカが私に気付き逃げていった。専用線の谷筋に僅かに残る住宅。現役時代は両側にびっしり炭鉱住宅が並んでいた事だろう。ひっそりと寂しい登川の狭い谷をあとにする。[登川・楓炭鉱編 2 へ][炭鉱町の記憶][ホームへ]※ 写真の無断転載を禁じます。
http://www.asahi-net.or.jp/~RE4M-IDGC/YUUBARIJ.htm
北炭登川炭鉱と登川の集落今でこそ夕張の一集落名に過ぎない登川という地名はかつては夕張の全体の行政区分でした。夕張は明治20年~大正7年の間登川村を名のっていたのです。現在の登川地区には明治42年に三井登川炭鉱が開鉱します。隣接した北炭楓炭鉱は明治35年に開鉱、大正2年に北炭楓発電所が完成すると発電所は三井登川炭鉱へも電力を供給しました。北炭の三井系列化の流れの中で三井登川炭鉱は大正8年に北炭登川炭鉱となり、真谷地炭鉱の楓坑も管下におくことになりました。表面的には北炭が登川鉱を吸収した形ですが、実際には夕張市内で唯一の三井の炭鉱であった登川鉱を三井系列となった北炭に担当させたということだったのでしょう。北炭登川炭鉱は昭和28年閉山、楓坑はその後北炭真谷炭鉱の傘下の楓坑となり、昭和62年に閉山を迎えました。登川は炭鉱の閉山時期が早かったため集落の衰退も早く、今ではかつての木造の炭鉱住宅を利用したほんの数軒が谷筋に残るに過ぎません。バスは石勝線沿いの国道を北に折れたすぐの場所まで入ります。たまたま家のビデオを整理している時に昭和63年頃のNHKの特集を見つけたのですがこの停留所付近の空撮映像がありそこにはたくさんの木造炭鉱住宅が映っていました。今ではこの停留所の近くには全く家はありません。またそのNHKの特集が「炭鉱(やま)の遺産」という題名で炭鉱遺産という言葉がこの頃にもう言葉としてあったことに驚きを覚えました。登川の停留所から少し奥に入った場所に遊具が数基置かれていました。最初学校跡かとも思い記念碑を探しましたが見つかりません。帰宅後昭和57年修正測量の紅葉山の2万5000分の1の地図を見てみると小学校は停留所の手前にあったことがわかり、加えて前述の映像の切れ端から推察するとこの場所は炭住に囲まれた公園だったのではないかと思われます。国道沿いのちょうど登川の停留所と石勝線をはさんで反対側に夕張市立登川中学校碑がありました。グランドらしき空間もあったのでここに学校があったのかと思っていたところ地図により学校自体は川をはさんでさらに南側にあったことがわかりました。閉校は昭和62年3月31日で真谷地鉱の閉山と時を同じくして歴史を終えたのです。登川の最奥地では大夕張トンネル西工事が行われています。その工事現場へ向かう途中には鉄道の軌道跡を利用した仮橋がありました。北炭登川炭鉱のホッパーのあった場所は北海道横断自動車道の工事により盛土の中に埋もれてしまいました。今ではわずかに軌道の橋脚やコンクリートの残滓が残るのみとなっています。(地域別情報4-8-1.夕張周辺に地図と周辺案内があります。)北海道旅情報巻頭  3-1.炭鉱町を旅する
https://teruhiko.at.webry.info/201005/article_10.html
北炭登川炭鉱の前身は、三井登川炭鉱(夕張唯一の三井炭鉱)で、明治42年に開鉱しました。その後、北炭に吸収される(実際は、北炭が三井系になった)形で、隣接する楓坑を真谷地炭鉱より移管し、大正8年に北炭登川炭鉱となりました。閉山は、昭和28年。閉山後、楓坑は、北炭真谷地炭鉱へ移管されました。林道を進んでいくと、硫黄の臭いが漂ってきます。川辺を見ると、硫黄分を含んだ水が湧き出していました。炭鉱坑内から湧き出している物かと思い、一応撮影。そのそばに、硫黄臭のする支流がありました。この上流に、坑口があるのかも知れません。川の対岸、台地状になっている場所に、坑口らしきモノを確認。生憎渡河可能な場所が無かったので、接近は断念。ちょっと下がった場所に、真新しい坑口を発見。新しい炭鉱か!いやいや、道東道の建設現場です。丁度、道東道の建設現場付近が、かつての選炭場跡で、近年まで残存していたホッパー等は、工事の関係で埋まってしまったり取り壊されたりしています。ちなみに、道東道沿いに、ズリ山があります。現場近くに残っていた遺構です。何の遺構かは、不明。脇にはコンクリートの残骸が、散乱してました。さらに集落に近い場所にあったコンクリート基礎。次回訪れる時には、坑口を確認してみたいと思います。