川平金山は長崎県長崎市の鉱山。 川平周辺に東西2kmほどの範囲に熱水変質により濃縮した鉱脈があり、....

川平金山

川平金山 概要・歴史

川平金山は長崎県長崎市の鉱山。 川平周辺に東西2kmほどの範囲に熱水変質により濃縮した鉱脈があり、....

川平金山 画像

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川平金山、犬継側の坑口跡(2022年4月)
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川平金山犬継坑口内部
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近くのスポット

川平金山 ストリートビュー・空中写真

川平金山 関連ブログ・参考リンク

https://misakimichi.com/archives/262
川平金山の坑口と金湯鉱泉の跡  三ッ山町六枚板福田網場脇の観音崎「金水温泉」跡は、別項ですでに紹介している。三ッ山町の六枚板にも”金湯”という冷泉の湯治場があった。斉藤茂吉が訪れている。長崎市立博物館平成17年3月19日「長崎学史跡めぐり(6) 西山街道を行く(2)」の資料による説明は次のとおり。8 六枚板六枚板という地名は、大きな榎があり、合戦のときその木から楯用として6尺の板が6枚取れたことから地名になったという。この六枚板では、以前に金鉱の採掘が行われていた。「郷村記」には、元禄6年(1693)に、浦上村淵掛の庄屋志賀藤右衛門が、その試掘を許可されたことが記述されているが、この志賀藤右衛門は、それ以前からも西城山のほうで金鉱の採掘を行っていたらしく、その場所は現在の金堀町という。この金鉱にちなんでか、六枚板には”金湯”と呼ばれる冷泉があり、皮膚病や火傷などに効果があるといって、湯治客も多かったそうだ。斉藤茂吉(1882〜1953)も、長崎滞在中の大正9年(1920)の10月11日から15日まで、ここで療養している。そのときのことは、「浦上の奥に来にけりはざまより流れ来る川をあはれに思ひて」「日もすがら朽葉の香する湯をあみて心しずめむ自らのため」などと詠んでいる。また茂吉は、この六枚板での療養中、昼間は教会やキリスト教徒の人たちの部落を訪れている。「かかる墓もあわれなり『ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳』」「小さなる御堂にのぼり散在する信者の家をみつつゐたり」などは、その時のことを詠んだのであろう。斉藤茂吉は長崎医学専門学校(長大医学部の前身)の教授。単身赴任の不便な生活のため、同年9月感冒にかかり、これに端を発した胸部疾患の養生に、この年の10月末まで自宅療養から雲仙、古湯、更に嬉野へと転地している。長崎の生活は決して順風満帆と言えなかったが、草かげろうに己を比す茂吉に生の意欲をかき立てたろう湯治となった、と書かれている(新訂「長崎の文学」平成3年刊第三刷146頁)。川平金山については、布袋厚著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊146頁に次のとおりある。
https://ameblo.jp/kazu1018yuki/entry-11482680537.html
特に気になったのが、やはり鉱山関係の記事、川平金山の項。鉱石1トンあたり、最高で金が687g、銀が355gなんちゅう含有量。今の世界標準が1トンあたり約5gで採算取れるのにそれの約137倍。菱刈鉱山でも1トンあたり80gこれは行って見なければ。ちょっとネットで検索。六枚坂と帆場に抗口があるらしい。試掘跡が南山グランド付近にあるらしい。六枚坂公民館辺りの抗口は以前の水害で消失、この辺りのガラから水晶が拾えたらしい。らしいばっかりですがこれは行かねばなりません。六枚坂公園があるので公園あたりなら車も駐車できるか調査そこそこで早速行ってみました。すいません。公園あったけど駐車できません。道路より車が大きいです。公園奥の家の方の許しを得てそこでUターンさせていただきました。ここからのアプローチを断念して帆場側から行くことにしました。県道45号線まででて路肩に駐車して地図とにらめっこ。古いナビしか持っていないので地図データーが入っていません。すると、先ほどUターンさせていただいた家の方が車で追いかけてきました。なんだろう?「道に迷っているようなので知っているとこなら案内するよ」との回答。わざわざ車で追いかけていただいたようです。