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三菱兵器 住吉トンネル工場跡 三菱兵器 住吉トンネル工場跡三菱兵器住吉トンネル工場とは、 第二次世界大戦末期に、三菱重工業株式会社長崎兵器製作所の疎開工場として、この場所から山を挟んで反対側の赤迫付近まで、 並列した6本のトンネルが掘られ、交代勤務により24時間体制で魚雷部品の製造が行われた場所です。当時は6本のトンネルがありましたが、3号~6号のトンネルは道路の拡張工事の際に出入口が塞がれ、 現在見学できるのは、1号・2号の2本のトンネルのみとなっています。 ▲ 三菱兵器住吉トンネル工場跡 ▲ 三菱兵器住吉トンネル工場入口の案内板住所とパンフレットを頼りに車で向かったところ、この案内表示を見逃してしまい、道路からはトンネルが見えないものですから、 目的地を見つけるのに手間取りました。 「デイリーヤマザキ長崎住吉町店」というコンビニを目がけて行くと分かり易いです。 付近に駐車場はありませんので、公共交通機関で行かれる事をお勧めします。トンネル工場跡は、左写真の道路の下に位置します。 ▲ 2号トンネル内部 ▲ 当時ここで部品が作られていた魚雷と同型のもの ▲ ▲ page top ▼ 以下、現地案内板からの転記 ▼ ▲ 施工前の様子。6本のトンネルが見えている。(2007年8月当時)《整備内容》6本あるトンネルのうち、3号から6号までの4本は、住吉側の出入口を壁でふさいで保存し、1号、2号は、 内部の補強を行い、できるだけ現状を維持したまま保存しています。6本のトンネルは、この保存整備を行う前から、入口部分がコンクリートで補強されていました。トンネル 内部は全てが補強されておらず、途中からは掘削されたままの岩肌になっています。道路拡幅により将来の交通増加や大型車の通行が予想されるので、それに耐えうる安全な構造にすることと、 岩肌部分に手を加えない等、できるかぎり現状を損なわないようにすることを考慮して、補強を行いました。 トンネル入口より奥側約2mのところから、1号トンネルは隔壁があ...2,500人が働くことのできる規模のものでした。《動員された人々》記録や当時を知る人の話によると、当時の長崎には、軍需工場が多数あり、学徒、挺身隊、徴用工等が 動員されて各地で働いていました。トンネル工場では軍の管轄下で兵器(魚雷)生産に関わる作業が行われており、その作業に動員された 人達が従事していました。トンネル工場周辺には工員として動員された人達のための寮が建てられていました。また、土木工事を する人達等のための飯場がいくつかあり、その居住者の多くは朝鮮人労働者でした。その中には、強制的に動員された者もおり、トンネルの掘削工事で過酷な労働に従事していました。 彼らは3交代で、発破後のトンネル内での掘削作業や、発破により排出される土や石をトロッコで搬出 したり、トラックに積んだりするような屋外作業を主に行っていたと言われています。 ▲ 戦後まもなく撮影されたトンネル工場内部の様子兵器生産にあたった人達の多くは、年齢は10代や20代くらいで、長崎市内のほか、県内外からも動員 されていました。就業体制としては、2交代の者と3交代の者がいました。2交代の者は昼勤もしくは夜勤で1日約12時間 働き、3交代の者は一番方、二番方、三番方と呼ばれ、朝8時から夕方5時まで、5時から12時まで、 12時から朝8時まで働き、魚雷の部品を作っていました。《作業内容》当時の記録や体験談によると、トンネル工場では、次のような部品の製作が行われたと言われています。1号トンネルでは、魚雷の胴体部分や舵の部分、部品の継ぎ目を削る作業が行われていました。2号トンネルには精密部門が入っており、航空機用魚雷の推進の部分、舵の部分、動きを安定させる部分 を作っていました。トンネル工場で作った部品は大橋工場に運ばれ、そこで組み立てて魚雷を完成させていました。 航空機用の魚雷は月産、80本くらいでした。 page top 三菱兵器住吉トンネル工場(跡) DATA住所長崎県長崎市住吉町18電話番号095-844-3913(原爆資料館被爆継承課)開館時間終日解放休館日なし見学料無料駐車場なし公式HP備考 関連 LINK◇ BACK HOME PAGE TOPlast visited : 2019/04/14
https://www.enaa.or.jp/GEC/nec/html/nyokai/sk17-3.pdf
https://kur0s1ba-wank0.com/warremains-of-japan/mitsubishi-weapon-tunnel/
かつて長崎県長崎市には「三菱重工業長崎兵器製作所」という軍需工場が存在していました。長崎兵器製作所は日本海軍の要求で三菱造船から分裂する形で誕生し、民間でありながら魚雷の研究と製造を行っていました。魚雷の工場は現:浦上駅周辺にあった「茂里町工場」、長与村岡郷の大村湾の入り江に設置された魚雷発射試験場である「堂崎工場」、現:長崎大学の文教キャンパスとなっている「大橋工場」がありました。