十文野減圧井は長崎県佐世保市にある水道施設。佐世保市消防団第3中隊本部第23分団十文野分駐所前に位....

十文野減圧井

十文野減圧井 概要・歴史

十文野減圧井は長崎県佐世保市にある水道施設。佐世保市消防団第3中隊本部第23分団十文野分駐所前に位....

十文野減圧井 画像

十文野減圧井(2024年1月)
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十文野減圧井 ストリートビュー・空中写真

十文野減圧井 関連ブログ・参考リンク

https://ameblo.jp/mmm-85a407/entry-12588914545.html
こんばんは、赤レンガ探偵団です。 赤レンガ探偵団③で紹介した「堺木峠減圧井」と同じ時期につくられた減圧井を探します。 Googleマップで「十文野減圧井」と検索すると地図が出てきましたが、目的地の近くのはずなのに、建物が見えてこない・・・
https://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.198/rekishi198.html
ふたたび、佐世保の歴史を歩く岡本貯水池の春、海軍と水と桜と。  皆皆瀬十文野の段々畑の間をぬうようにして、舗装された農道を上って行った。車の窓ガラスに雨つぶがパラパラと落ちてきた。以前訪れたときの記憶をたどって、道路の真ん中に残る給水栓を確認しようと途中で車を下りた。確かに「海軍水道給水辨」という文字と桜に錨のマークが刻まれた給水辨(弁)が残っていた。この道路の下を岡本水源池から野中町の減圧井へと水道管が通っているのである。 急な坂を蛇行しながら上るにしたがって、相浦愛宕山を真ん中に相浦川流域の風景が広がっていく。岡本水源池の門を潜り進むと、流れのせせらぎとウグイスの声が静かな森に響いている。古代の野外劇場のような形をした円形の石造りの第2貯水池が目に入った。 残念ながら貯水池の回りに植えられた桜は、まだつぼみのまま。ことしは寒さが長く続き、開花が遅れている。池の淵に並ぶ6本のシュロの木の下を通って中央に進んで行った。 最初の石段を上り、古代神殿の回廊のような通路を進んで行く。一面の草原である。通路に沿ってここにも桜並木がある。よく見ると数本の木々につぼみがふくらんでいる。草原にはツクシも顔を出し、生きとし生きるものが芽吹く喜びを感じる。 更に石段を上ると、第1貯水池があった。貯水池の周辺は玄武岩の縁石で囲ってあり、深い緑色の水をたたえていた。三角形の杉木立が池に影を落としている。 石段を下りて引き返すと、途中にまた桜に錨の給水栓を見つけた。「海軍のマークは桜に錨、桜は海軍のシンボルたいね」 水源地の桜は海軍将校の行楽のために植えられたもので、戦前は一般市民の立ち入りは禁じられていた。「そう言えば、2年前の今頃訪れた韓国の鎮海にも桜の木がたくさん植えられていたね。鎮海は旧海軍の佐世保鎮守管轄下の軍港たいね」「それにしても、川の上流でなくて、なんでこんな山奥に水源池を造ったとやろかね」 海軍の上水道施設ができたのは明治23年のことで、最初は郭公藪の湧き水を利用していた。次いで、明治33(1900)年5月に岡本貯水池を造り、ここと翌年完成した矢岳の浄水場鉄管で結び、水道水を海軍内へ給水した。岡本水源池は佐世保における近代水道の始まりと言える。 岡本湧水池は平戸藩の3大湧水池の一つで、水道施設も最初は湧水を利用して造られたようである。 岡本貯水池は「水道の父」と呼ばれる吉村長策博士によって造られた。吉村長策は今の大阪府出身で、万延元年(1860)の生まれである。工部大学校(現在の東大)を卒業し、長崎や関西の主要都市の上水道施設を造った後、佐世保へ来た。 吉村長策は岡本貯水池と同時に、水道施設ばかりでなく、海軍港湾施設建設の最高責任者になっている。 ところで、岡本貯水池から矢岳浄水場までの距離は、7.4km、高低差は146mもある。そこで途中の野中と堺木に、水圧を下げるため減圧井が設けられた。 岡本貯水池を後にして、野中町の減圧井を訪れた。円筒形の赤レンガの建物が、畑の中にポツンと立っている。屋根は日本瓦葺の和洋折衷であるが、塔全体がツタで覆われている。 岡本貯水池の完成を機に、明治36年から佐世保市は海軍から貰い水をして、市営の水売りサービスを開始した。蛇口をひねって飲める水道管による市民の給水が始まったのは、山ノ田水源池完成後の明治41年。更に市民待望の市独自の貯水池が菰田にできたのは昭和15年のことである。 相浦川を隔てて正面には、前岳や将官岳が聳えている。あちこちに山桜も開花し始め、春の訪れを告げている。十文野町の路上にある海軍時代の水道の蓋。古代の野外劇場のような形の第2貯水池。野中町の畑の中にポツンと減圧井が残る。●「99VIEW」TOPに戻る。
https://ameblo.jp/wv025608/entry-12825407955.html
 岡本貯水池についてもう少し。この岡本貯水池は、地理院の地図で調べると標高約185m程度です。ここから、先日報告した現在の海上自衛隊総監部に水を運ぶのですが。総監部の近くに設置された矢岳浄水場に送られます。 総監部付近の標高は、約30m程度。標高差は、155mもあります。つまり、そのまま送ると、水圧の為に、水道管が壊れてしまいます。 そうやって、野中町の標高約110m地点に「野中減圧井」を設置。私が住む近くの泉福寺町の標高約60mの地点に「堺木減圧井」が設置されています。どちらも、2019年7月に報告しているのですが。その内に、再度報告したいと思います。 上記ツアーの案内では、野中減圧井は、「十文野減圧井」と紹介されていました。市の説明では、「岡本減圧井」と。最初に見付けたのは、水道百周年記念で作られた特集記事に「野中減圧井」と説明されていました。面白いですね。
https://dyama.org/2015/04/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E6%8E%A2%E8%A8%AA%E3%80%9C%E5%A0%BA%E6%9C%A8%E5%B3%A0%E6%B8%9B%E5%9C%A7%E4%BA%95%E3%80%9C/
先日、豚トロを食べようと雪平鍋に油をひいて加熱している途中、誤って鍋をひっくり返してしまいました。 結果、足に全治2週間の火傷を負いました。情けない・・・。火傷した日からちょうど2週間が過ぎた日、通院のため自転車に乗っていると堺木付近に「堺木峠減圧井(げんあつせい)」というものを見つけました。
https://akane125-2.blog.ss-blog.jp/2022-07-25
やってきたの佐世保のバイク仲間のkamoさん情報で知った「十文野減圧井」明治34年に作られた水源地から急勾配で送られてくる水の圧を配水管の破裂を回避するため一旦圧を下げる場所らしい。
http://kujyuukushima.blog.fc2.com/blog-entry-222.html
現在佐世保市に普及している水道施設の始まりは海軍によるものです。佐世保市に海軍鎮守府が設置された当時、鎮守府用の水道だけは出来ていましたが、一般用の水源は川や井戸だったようです。鎮守府の設置に伴い、人口も増え続けた為に明治34年、岡本貯水池とその関連施設が造られ、一般向けにも販売されるようになりました。その後も急速な佐世保市の発展に伴いいくつもの浄水施設などが建設され、それらが今現在も利用されています。まずは岡本貯水池。残念ながら立ち入り禁止となっています。
https://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/vol.142/history142.html
佐世保市制100周年----------シリーズ8佐世保の水道の始まり。吉村長策と水道大野坂上から皆瀬十文野へと新しく舗装された農道を進んでいく。相浦川の河岸段丘上に連なる青々とした棚田に、梅雨明け後の強い日差しがギラギラと照り返している。眼下に広がる相浦川の流域には、新しい住宅や郊外型ショッピングセンターが立ち並び、すっかり様変わりした。対岸には将官岳、前岳がそびえている。岡本水源池の門を潜ると、古代の野外劇場のような形をした円形の石造りの貯水池が目に入った。第二貯水池である。湧き水を利用するためにこのような形になった。池の淵に並ぶ6本のシュロの木の下を通って中央に進んでいった。一面びっしりと夏草に覆われている。古代神殿の回廊のような中央の通路を進んで行くと、一段高い所に土せき塁の第一貯水池があった。貯水池の周辺は玄武岩の縁石囲ってあり、澄んだ池の中を大きなオタマジャクシが泳いでいた。三角形の杉木立が池に影を落している。岡本貯水池は『水道の父』と言われる、吉村長策博士によって造られた。吉村長策は今の大阪府主身で、万延元年(1860)の生まれである。工部大学校(現在の東大)を卒業したあと、まず最初の仕事として、明治24年、当時長崎で流行していたコレラ封じ込めの目的で、長崎の上水道を建設した。長崎上水道は全国で3番目のものである。その後、関西の主要都市の上水道を造り、佐世保へ来た。現在、佐世保には7つの水道貯水池があって、その大部分は旧海軍の手によって造られたものである。海軍の上水道が出来たのは明治23年のことで、最初は郭公藪の涌き水を利用していた。t次に岡本水源池を造ったのは、明治33年(1900)5月で、ここと翌年完成した矢岳の浄水場を約20~25cmの鋳鉄管で結び、水道水を海軍構内へ給水した。岡本貯水池は佐世保における近代水道施設の始まりと言える。ところで岡本貯水池から矢岳浄水場までの距離は7.4km、高低差は146mもある。そこで途中の野中と堺木に、水圧を下げるため減圧井が設けられている。岡本貯水池を後にして、野中町の減圧井を訪れた。円筒形の赤レンガの建物が、畑の中に立っていた。屋根は日本瓦葺きの和洋折衷であるが、いまは緑のツタが絡まって大半を覆っていた。国道まで下りて、堺木の減圧井を訪れたあと、矢岳の浄水場あとを訪ねた。いまは自衛隊官舎敷地などになり、何も残っていないが、ここにろ過池二つと配水池二つの浄水場があった。この矢岳のろ過池はもちろん佐世保で初めてのものであり、郭公藪の原水もこの浄水場に引かれることになった。本格的な海軍水道の始まりである。岡本貯水池の完成を機に、明治36年から佐世保市は海軍から貰い水をして、水桶一斗ニ銭で市営の水売り巡回サービスを始めたのである。蛇口をひねって飲める水道管による市民の給水が始まったのは、山ノ田貯水池完成後の明治41年。さらに市民待望の市独自の貯水池が菰田に出来たのは昭和15年のことである。矢岳から小島町あたりには、多くの旧海軍工廠の工員が住んでいたという。ここからはSSKのドッグ群が良く見渡せる。吉村長策は、岡本水源地の建設工事の途中に、佐世保海軍鎮守府の第二代目の建築科長の要職についた。いまの福田町の料亭錦のあたりに居を構え、佐世保在住10年余り、明治44年、海軍省の四部局長に転任した。この間、第6、第5、第4ドック(現第1、第2、第3ドッグ)をはじめ、平瀬埋築、立神けい船池築造などの大工事に着手した。この後、佐世保軍港建設事業は、真島健三郎、松永宏幸一という歴代の建築科長へと引き継がれていく。堺木にある減圧井。赤レンガと日本瓦が和洋折衷。岡本貯水池の第1貯水池は今も静かに水をたたえる。