http://members3.jcom.home.ne.jp/bighorn3/kouzann/rubeshibe/rubeshibe1.html
大成鉱山 概要. 昭和4年に泉地区(当時は相内村)一帯に、鉱区権を所有していた愛媛 県選出の貴族議員 佐々木 長治は、地元の 昭和8年の創業から、昭和18年の鴻之舞 本山の休山にともなう廃鉱までの10年間 金華市外は、商店の新規開店や駅前旅館の
http://www.geocities.jp/syougunn7/itomuka.htm
イトムカ水銀鉱跡イトムカ鉱山碑。富士見にある選鉱所、かなりの大きさの木造建築物。(中央にある赤い屋根の建物)沈殿池。今も有毒水が坑口から流れ出ている、ここに溜めることで中和されるらしい。選鉱所のホッパー跡?。選鉱所のクラッシャー跡?。何に使う物なのか・・・・。
https://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top4701.html
水銀生産量 0.33万t大雪国道の開削は大正3年の常紋トンネル鉄道敷設工事時より計画され、昭和32年の完成まで実に50年の歳月が経過している。鉱山跡は石北峠8合目付近から北進した山中に存在する。 当時の地形図と比較しても道は大きく変わってしまっている。坑口や索道も描かれた、当時の採鉱中心部より探索を始める。 すぐに山の斜面に第一の遺構である。腐食した鋼製の箱から100A程度の配管が露出している。COD対策としての鉱水処理の簡易な沈殿池のようだ。 やがて現れた平場にはトイレらしき崩れた廃墟がある。便器や煙突も残存しているが、かつての小屋は既に跡形しか無い。 ルピナスの群生の向こうには、沈殿池のような人工的な施設が見える。どうやら沈殿池は2連並列しているようだ。 沈殿池は閉山後完成したのか、近代的なものであった。少し接近してみよう。 2連あるうちの片方の沈殿池は草が茂っており、もう片方は水没している。水銀濃度に関してはシビアに水質検査が行われているようだ。 かつて昭和46年に無加川の魚類の水銀濃度が調査され、結果的に「飲用水判定基準内」にあったという。沈殿池を背に、更に奥へ進む。 沈殿池の先には斜面に忽然と坑口が現れた。すべての坑口は埋められたとの事前情報を得ていたので、これは予想外の巨大遺構である。 ポータル部の意匠には「通洞坑」の文字がある。掘削坑は封鎖されたようだが、この通洞坑だけは残されたようだ。 坑道は相当深く続いているようだ。厳重に施錠され内部は窺い知れないが、キロ単位で延長しているはずだ。 通洞坑の手前には何やら斜面に廃墟がある。もしやこれは・・・接近してみよう。 巨大な廃墟だ。これはおそらく旧選鉱所だ。朽ちてはいるがかなりの残存度だ。 形状を維持している廃祉だ。よく残存したものだ。内部を確認してみよう。 最上段にはチップラー装置の遺構がある。鉱石運搬のトロッコがこの円筒の中央部に入り、トロッコごと反転、鉱石を落とす装置だ。 内部には制御盤のような設備も...殿した鉱石だけが実収される。 選鉱所から離れ、更に山中を探索する。付近には他にも施設があったはずだ。6月は藪が茂る、ギリギリの時期だ。 藪の奥には木造の建造物がある。これは平屋の鉱員住宅のようだ。どうやら劣化が激しいようだ。 木造の住居は昭和の色を濃く残す。長年の豪雪により、屋根も床も損傷している。 内部には家具も残り、紙の資料は水防の関連のようだ。床は今にも抜けそうに軋む。 選鉱所の南部には人工的な水路が山中を這う。人跡未踏な山中に水路が張り巡らされた風景は一種異様だ。水路を追ってみる。 水路の先は藪に埋もれ、その先には「通洞坑排水口」との看板があった。更に旧鉱区図の索道を追って坑口を探す。 最奥の「倭(やまと)鉱床」付近。既に激廃道だが、ここに存在した「乾坑」を探索する。位置的にはほぼ接近しているが・・・。 沢に埋もれた鋼管があった。これはいよいよ坑口に近い証拠だ。更に斜面を追う。 植生の無い斜面が現れた。これが埋没した「乾坑」だ。どうやら人為的に埋設されたようだ。 エフレックス系のチューブが這う斜面。イトムカ川に沿って遡上してみよう。鉱山事務所や神社、学校の廃祉を追う。 今となっては背景がわからない廃墟が点在する。50戸を超える社宅が存在したことから、かなりの規模の街だったはずだが、今はもうその痕跡も疎らだ。 山中には廃墟に混じり、レールが朽ちている。12kgf級のか細いレールだ。索道の記録はあるが、鉱山軌道も敷設されていたのだろう。 最上流で現れたのがこの廃橋である。ピアはRC製で朽ちてはいるがしっかりしている。ところが桁の部分に床版は無く、鉄筋がむき出しとなっている。 川床からの高さは3m程度だが、d9程度の細い鉄筋の間から中空を覗くことができる。補強筋も一部脱落しており、非常にアンバランスだ。 それでは渡ってみよう。一歩歩くたびに鉄筋がたわみ、揺れが続く。向こう岸のアバットからは廃道が続いているが遺構は無い。 青空に抜ける橋梁の廃墟。この鉱山跡を象徴するかのような、かつての繁栄を語る、静かな廃祉だ。 戻るイトムカ鉱山 富士見編へトップページへトップページへ
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/01-2.Doto/Rubeshibe_Itomuka.html
◆イトムカ(いとむか)鉱山所在:北見市留辺蘂町富士見(るべしべちょうふじみ)訪問:2013年6月 町の東部、無加(むか)川支流のイトムカ川流域にあった水銀鉱山。道北の上川町と境をなす石北(せきほく)峠にもほど近い。事業所等が置かれた大町地区と、採鉱の拠点となった山間部の元山地区に大別される。 町史および大町にある碑によると、昭和14年、関西の実業家・野村氏が大和鉱業株式会社(翌年野村鉱業株式会社に改称)を設立し、鉱山の開発に着手。鉱床発見のきっかけは昭和11年の暴風雨で、風倒木の搬出作業中に木の根に付着した良質の辰砂(水銀の原料となる鉱物)が発見されたことによる。以後国内でも稀少な水銀鉱山として、生産量・処理能力で東洋一を誇っていた。昭和48年閉山。 現在は大町において、企業が水銀を含む廃棄物の処理・リサイクルを行っている。 ≪大町(おおまち)≫※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「石狩岳」(昭和36.7)を使用したものである地形図:石北峠/石狩岳形態:川沿いに家屋や施設が多数集まる離村の背景:産業の衰退標高:約660m 町の西部、無加(むか)川沿いにある。 町史および現地の碑によると、鉱山事務所・選鉱場・精錬所のほか、350余戸の社宅・寮・恵泉(けいせん)小学校・恵泉中学校・診療所・伊頓武華郵便局・恵泉公民館・町役場出張所・駐在所などがあったよう。昭和48年閉山によって無住となる。鉱山の開業当初の交通手段は、1日1往復の官行軌道に便乗するもの。林野庁との交渉ののち、路線は鉱業所との共用となる。昭和32年には国道が開通した。 学校の碑によると、恵泉(けいせん)小学校は昭和16年(町史では17年)3月25日恵泉国民学校として開校。恵泉中学校は昭和22年4月1日(町史では6月1日)開校(小学校に併設)、同27年独立校舎となる。小学校・中学校ともに昭和46年3月20日廃校。 現在は先述の企業の工場が稼働中で、かつての集落跡地は確認できず。社有地の出入口付近に「イトムカ鉱山発祥之地」の碑(写真1)や小学校・中学校の碑(写真2)がある。 写真1 碑写真2 学校の碑 ≪元山(もとやま)≫※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「上支湧別」(昭和36.7)を使用したものである所在:北見市留辺蘂町富士見(ふじみ)地形図:武利岳/上支湧別形態:山中に家屋や施設が多数集まる離村の背景:事業の集約標高:約1,000m訪問:2013年6月 町の西部、無加(むか)川支流のイトムカ川沿いにある。 町史によると、採鉱関係従業員の社宅50余戸のほか、伊頓武華小学校・診療所・配給所・共同浴場・合宿などがあったよう。昭和37年企業整備を行い、同39年には経営の合理化。元山に居住する従業員は、全戸が大町に移転、バスで通勤することとなった。また伊頓武華小学校は、昭和21年5月恵泉国民学校附属元山分教場として開校。昭和23年伊頓武華小学校として独立。昭和39年廃校。 現在は建造物の類はほとんど見られないが、基礎などの遺構が多数残されている。古い地図を頼りに学校跡や神社跡を探索するが、特定には至らず。 写真3 平坦地写真4 遺構写真5 何かの構造物写真6 建物跡写真7 学校跡?写真8 住宅跡写真9 同写真10 同写真11 同写真12 住宅跡にて写真13 同写真14 集落内のイトムカ川写真15 ?写真16 住宅跡写真17 住宅跡にて写真18 川沿いの遺構写真19 住宅跡写真20 同写真21 住宅跡にて写真22 電柱写真23 何かの槽写真24 沈澱施設?写真26 施設跡