石狩油田(八の沢鉱業所)は北海道石狩市にあった油田。 1858(安政5)年、幕府箱館奉行所石狩詰役所の...

石狩油田(八の沢鉱業所) お気に入りに追加

名称 石狩油田(八の沢鉱業所)
住所 北海道石狩市
種類 廃鉱・採石場跡
北海道の廃鉱・採石場跡
スコア
★★★★★★★ 19
現況 現存
評価 ■■

石狩油田(八の沢鉱業所) 概要・歴史

石狩油田(八の沢鉱業所)は北海道石狩市にあった油田。

1858(安政5)年、幕府箱館奉行所石狩詰役所の荒井金助が調査したことに始まるという。

1903(明治36)年、横浜の「インターナショナル」石油会社が本格的な油田開発を開始。峻別・五の沢でボーリングを行い、数本の良質な油井を掘り当てたが、埋蔵量が少なく間もなく停滞。

1911(明治44)年、油田は日本石油に譲渡され、以後「日本石油石狩鉱場」と呼ばれるようになった。同年、軽川(手稲)駅隣に敷地約19ヘクタールの「北海道製油所」が建設される。油田から石狩川河畔(来札)までパイプ油送、石狩川の渡河は長い間「艀」を使用した。

1928(昭和3)年、空中にワイヤロープを張り、石狩川を渡河させた。油田から精製工場まで約30キロメートルをパイプライン(原油は直径約5センチメートル、ガソリンは3.3センチメートルパイプ)で結び、全区間の流送が可能となった。

1929(昭和4)年、石狩油田は最盛期を迎え、年間産油量10,000キロリットルを記録したが、総埋蔵量が少ないため、1933(昭和8)年には、新規ボーリングを中止。

戦争中は石油需要が伸びたが、産出量は回復しなかった。

1945(昭和20)年7月20日、米艦載機の空爆により、製油所の石油タンク7基と工場が焼失した。

1955(昭和30)年頃になると、原油生産量は年間1,800キロリットルを下回り、1960(昭和35)年に閉鎖された。

一帯は今でも石油臭がし、原油のようなものが湧き出ているのが確認できる。油田の記念碑、伊夜日子神社の碑、八の沢小学校の校門跡などの遺構が見られる。

この物件のオリジナル画像をご提供頂ける方は、ぜひこちらよりご連絡下さい

近くのスポット

石狩油田(八の沢鉱業所) ストリートビュー・空中写真

石狩油田(八の沢鉱業所) 関連ブログ・参考リンク

北海道、何でも秘境探検記。(秘滝、秘湯、遺構、秘境駅他) 石狩油田地帯(石狩市)~原油がザクザク
http://hikyoutaki.blog.fc2.com/blog-entry-126.html
最近の原油高には苦労しますね、国内では新潟県に油田が少しあるくらいですが、北海道にも原油が湧いている場所があるんです。戦前~戦後にかけて石狩油田が開発されましたが、湧出量が少なくコスト高になるため廃止に今回はその跡地を探険してみました。ここは「八の沢鉱業所」と
日本の過疎地 石狩市八の沢
http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-87.html
これにより、日本石油は石狩に鉱場を設け、事業を引き継いでいく。 大正10年 厚田村で石油試掘を行なっていた宝田石油会社と合併し、事業の拡大をはかる。 当時、子供たちは五の沢尋常小学校に通学していた。 昭和2年1月17日 五の沢 
八の沢鉱業所 油田 探検: 北の細道
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top4800.html
八の沢鉱業所で重油を見る北海道石狩市厚田  幕末から明治11年(1878)にかけて、湧出する石油採掘が始められたが当初は徒労に終わった。明治44年 (1911)頃には本格的に採掘され、以降年間1万キロリットル、従業員69名、深度600~1000mの油井161という巨大坑と相成った。かつては石狩市との間に専用軌道も有し、手稲の製油所までパイプラインも存在した。昭和35年には最盛期の1/5の生産量となり、天然ガスの事業も含めて閉山となってしまう。今回は望来(もうらい)の無煙(むえん)浜の湧出地点と合わせて、地面から吐出する重油を探索する。油井・重油・廃神社・・・( ̄u ̄;)石油湧出トップページへ
石狩油田(八の沢鉱業所) 関連ワード
  • 国内
  • 新津油田
  • 油田
  • 秋田県
  • 開発