石狩油田(八の沢鉱業所) 概要・歴史
石狩油田(八の沢鉱業所)は北海道石狩市にあった油田。
1858(安政5)年、幕府箱館奉行所石狩詰役所の荒井金助が調査したことに始まるという。
1903(明治36)年、横浜の「インターナショナル」石油会社が本格的な油田開発を開始。峻別・五の沢でボーリングを行い、数本の良質な油井を掘り当てたが、埋蔵量が少なく間もなく停滞。
1911(明治44)年、油田は日本石油に譲渡され、以後「日本石油石狩鉱場」と呼ばれるようになった。同年、軽川(手稲)駅隣に敷地約19ヘクタールの「北海道製油所」が建設される。油田から石狩川河畔(来札)までパイプ油送、石狩川の渡河は長い間「艀」を使用した。
1928(昭和3)年、空中にワイヤロープを張り、石狩川を渡河させた。油田から精製工場まで約30キロメートルをパイプライン(原油は直径約5センチメートル、ガソリンは3.3センチメートルパイプ)で結び、全区間の流送が可能となった。
1929(昭和4)年、石狩油田は最盛期を迎え、年間産油量10,000キロリットルを記録したが、総埋蔵量が少ないため、1933(昭和8)年には、新規ボーリングを中止。
戦争中は石油需要が伸びたが、産出量は回復しなかった。
1945(昭和20)年7月20日、米艦載機の空爆により、製油所の石油タンク7基と工場が焼失した。
1955(昭和30)年頃になると、原油生産量は年間1,800キロリットルを下回り、1960(昭和35)年に閉鎖された。
一帯は今でも石油臭がし、原油のようなものが湧き出ているのが確認できる。油田の記念碑、伊夜日子神社の碑、八の沢小学校の校門跡などの遺構が見られる。
2014-11-25
2019-11-23