軍事道路は北海道小樽市にある廃道、戦争遺構。 日露戦争当時の1904(明治37)年に、海岸線を走る鉄道...

軍事道路(石倉山遺構、張碓峠旧道)

軍事道路(石倉山遺構、張碓峠旧道) 概要・歴史

軍事道路は北海道小樽市にある廃道、戦争遺構。 日露戦争当時の1904(明治37)年に、海岸線を走る鉄道...

軍事道路(石倉山遺構、張碓峠旧道) 画像

軍事道路概要図
©国土地理院

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軍事道路(石倉山遺構、張碓峠旧道) 関連ブログ・参考リンク

http://otarusanpo.exblog.jp/14502730
「〒」マークの付いた謎の建造物。一体、何だこりゃ!?建物の正体は長らく謎で、〒からの連想で郵便物の保管場所か?などとも推理されたようですが、最近わかったのは、電話線に関連する設備だということ。電話の通信電流が弱まるのを防ぐための施設だそうです。昔は電話も郵便も
http://atsites.jp/asobihorokerusan/isikuraikou.htm
石倉山には日露戦争当時(1904年)、海岸線を走る鉄道が攻撃されたときに、代替交通網として使うために軍事道路が造られた。軍事道路は、現在、途中崖崩れで通行不能なようだ。この道路の張碓側と朝里側に、〒のマークが付いた同じ建物がある。〒小屋は、電信装置に使われた「
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=01c6e563a8a35d1b3f4fcae438077558
http://wannko1999.blog.fc2.com/blog-entry-52.html
張碓旧軍事道路 軍事道路1 旧軍事道路 小樽市張碓町 撮影日:2013年5月12日 ○1904年(明治37)日露戦争当時、海上から敵艦の攻撃を受けた場合の後方連絡道路として造られたそうです。 軍事道路2 旧軍事道路 小樽市張碓町
http://ezoyama.web.fc2.com/tozan/ishikurayama2012.htm
2012年12月8日 道路地図にも載ってるので気になっていたが張碓と朝里にある砕石場の山というイメージが登山意欲を妨げる。 たまたま山麓に延びる林道が実は日露戦争をきっかけに作られた軍事道路であること、 古い電柱等が残されていることを知り訪れツ黴
http://homepage2.nifty.com/tamizu-otaru/miz028.htm
明治四年開拓使は銭函に仮役所を置き、島勇武判官等が札幌本府への道路建設にあたった。一方小樽から銭函までは、それまでの海岸沿いの道を明治六年には幅二間に改修した。これで人馬の往来便利になったとはいえ、時折襲う波浪による毀損はいつものツ黴
http://soranosebone.blog80.fc2.com/blog-entry-20.html
小樽市張碓から朝里に抜ける道が昔は存在した。軍事目的に明治37年完成された、対ロシアの道路だ。中間地点が落盤で通行不能なため、今回は張碓側から落盤地点までを踏査してみた。とても景色が良い、林道である。軍事道路からの眺めpostedby(C)izumi途中、古い
http://gray.ap.teacup.com/pxc07374/175.html
小樽市石倉山南側を走る通称「軍事道路」に残る謎の建造物を探索しました。この軍事道路は日露戦争当時、小樽市内が海上からの攻撃を受けた場合の後方連絡道路として1904~1905年(明治37~明治38年)にかけて建設されたようです。そして、この軍事道路の途中に「装荷
http://otarumania.blog.fc2.com/blog-entry-516.html
軍事道路の途中、石倉山方面との分岐から少し行った山側にこちらの建物があります。〒マークが目立ちます。鉄の扉に鉄の輪が付いています。中はがら
http://blogs.yahoo.co.jp/hide_omori/22809855.html
小樽の張碓から朝里へ抜ける途中に左手に見える石倉山。少し朝里寄りに採石場が見えると言えば「ああ、あそこか」気づく人も多いかと思います。以前にアソビホロケール山のサトマサさんのHPを見て歩いたのですがどうも山頂が不明瞭でした。地図を見ながら進み、ピンクテープもあ
https://t93108.hatenablog.com/entry/2020/07/19/182000
4本の道路と1本の鉄道一般国道5号線は、函館から札幌までを結んでいる。その中でも、函館から森の区間と、この張碓峠を挟む小樽・札幌間の歴史は古い。張碓一帯は、山がそのまま海に落ちこむ急崖地帯で、明治初期に札樽間を結んだ道路や幌内鉄道(現:函館本線)の一番の難所であった。