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小鉾岸鉱山で火薬庫に入る北海道豊浦町 わずかな打撃や熱を与えると、急激に多量の熱とガスを発生させる固体または液体を火薬類といい、その現象を爆発と呼ぶ。火薬類は自体内に酸素を保有しているので、空気の無いところでも燃焼または爆発することができる。火薬類は爆発を伝える速度(=爆速)が比較的遅いものを低級火薬といい、爆速が早いものを爆薬と呼び、ダイナマイトがこれに属している。その原材料により膠質・粉状・カーリット・硝安・黒色などに分類される火薬であるが、それ単体では使用できず、火工品と呼ばれる雷管・導火線・導爆線等とセットで使用される。凍結や染み出し、吸湿を避けるため、その保管・貯蔵が重要な課題となる。貯蔵時の包装量は詳細に規定され、その火薬の薬包径に対して、数量の上限や導火線の長さも保安規定が定められている。当時の「火薬類取締法施工規定」によればその保管、貯蔵は火薬庫においてなされることが決められ、火薬庫は1級・2級・3級・煙火・導火線庫の5種に分類される。1級は恒久的施設、2級は土木工事等の臨時貯蔵、3級は火薬類販売業者の堅牢設備と、その最大貯蔵量や同時貯蔵についても詳細に規定されている。鉱山跡に残存する火薬庫の類は主に2級火薬庫と呼ばれるものだろうか。大岸鉱山の前衛である、小鉾岸(おふきし)鉱山は大正10年頃事業を開始した。昭和11年には68人の労務者であったのに対し、事業拡張に伴い豊浦村は商工大臣に向け、金鉱精錬所新設に関する陳情書を提出する。国策としていよいよ繁栄を極める本坑であるが、昭和15年に86世帯であった鉱業世帯数も、翌年には234世帯と大幅な躍進を遂げる。また陳情書が功を奏してか、昭和17年から「日本産金振興株式会社豊浦精錬所」も稼働を開始する。ところが戦争遂行の必要から加速していた戦後日本の金政策は、日米開戦を経て金の海外支払いの意義が薄れ、金を用いて鉄鉱を輸入する道が閉ざされることとなる。つまり、金山にある労働力のすべてを、戦争完遂に必要な銅・鉄・石炭への確保に切り替え、日本中のほぼすべての金鉱山が休山、廃止、整理へと追い込まれることとなる。これをもって、昭和18年本鉱山は閉山を迎える。精錬所に至ってはわずか1年余りでの閉鎖である。再び昭和26年度町勢要覧には鉱業人工29人、亜鉛生産19tとの記載があるが、その後の記録は全く消えてしまう。今回は精錬所以西の坑道探索である。休山によって「ヤマ」を去らなければなったのは鉱山職員やその関係者だけではない。240世帯の街が忽然と消滅するわけだから、街を町として維持させてきた諸機能に係わる人たちもまた、余儀なく「ヤマ」を去って行ったのである。坑道・火薬庫・水没・・・( ̄u ̄;)鍵トップページへ