古武井鉱山は北海道函館市(旧・恵山町)にあった鉱山。古武井川の上流10km、標高600m付近に位置する...

古武井鉱山

古武井鉱山 概要・歴史

古武井鉱山は北海道函館市(旧・恵山町)にあった鉱山。古武井川の上流10km、標高600m付近に位置する...
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古武井鉱山 ストリートビュー・空中写真

古武井鉱山 関連ブログ・参考リンク

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古武井鉱山で風車を見る北海道恵山町(函館市)渡島支庁は亀田半島の東端に位置し、津軽海峡を隔てて下北半島と相対している。この地域には恵山遺跡をはじめ各所にアイヌの遺跡が知られている。和人が住み着いたのは1189年頃以降だと言われ、豊富な漁業資源の開発が進められて
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溶鉱炉跡と風車の共存恵山火山は二重式の成層火山に分類され、賽ノ河原と呼ばれる楕円式の火口原を持つ外輪部と、数個の寄生火山により構成されている。古武井川支流にはかつて黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱などが蜜雑したものに、重晶石を伴う黒鉄鉱床が分布していた。戸井、日浦、古
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top7901.html
噴火口を思わせる巨大露天掘り古武井日ノ浜周辺を望む。恵山町は渡島半島東部の亀田半島南東部にある。冬季積雪量は50cm以下の「非雪国」である。日ノ浜北方から林道を進む。北工古武井鉱山の脇を抜ける。鉱山跡までここから約13km、標高差530mである。かつての馬車軌
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0120205100/0120205100100050?hid=ht004650
事務系職員50余人、労働者約1200人、家族等鉱山に関わる人々を含めると3000人以上を超える人々が、鉱山付近に居住し働いていた。横浜を経由して、ほとんどがアメリカへ輸出、また、オーストラリアへも輸出。国内では新潟の硫曹製造会社などへ
https://plaza.rakuten.co.jp/dogasima2006/diary/200609100000/
古武井鉱山元山は古武井川の上流10km標高600mにあった。当時古武井鉱山は東洋一の硫黄鉱山で、古武井川沿いに鉱山施設、商店、学校、病院が点在し、3000人が生活していた。古武井川沿いの林道には当時トロッコ軌道が走り鉄道馬車で運搬された製品は海岸倉庫に一時保管
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0120205100/0120205100100050/ht004550
明治37年1月の殖民公報第18號(北海道廰)目次へ 前へ 次へ 礦業の部・明治24年3月28日出版の北海道廰第2地理課『北海道鑛床調査報文』によれば(いわゆる公のもの)、硫黄の発見については、右記のように記録されている。 だが、地元の言い伝えでは、古武井の住人、樵夫の山野千松であるとされている。この事について、明治45年、函館商船学校の町田久敬(峯水)という人が、函館毎日新聞に連載した『古武井紀行記』の中に触れているので要約してみる。 『……この古武井の三井鉱山を発見した話しはなかなか聞くに価値があると思う。その発見者は古武井村の人で、山野千松と言う船大工で、元治元年(1864)にそれを報告した。ある日のこと船大工は自分の商売に必要なる舵(かじ)の原料を求めんとて、該山に出かけた。…中略… 四月といっても旧暦、船大工、余りの寒さに耐え兼ねて枯れ木を集め岩上で燃やすと、硫黄の毒煙紛々として発煙し、到底身体を温むる余地を有せざらしめ、直ちに帰村し、これを村民に報告したところ、同村で有名なる善兵衛と言う人が総代となり、これを函館の資産家石川小十郎と言う人に謀り、同氏の投資により開坑に着手、爾(じ)後幾多の人の手に帰し、これを押野の手に帰したのは、明治三五年四月、また、三井の手に帰したのが、明治四四年一二月。…中略… それで、この船大工は、油絵想像画として三井鉱山事務所に掲げられてあるが、頭の禿げた大和船の船頭らしき顔つきをして居る。之(これ)は何よりの見ておくべき記念物であると思う。それで、該山(鉱山)の寿命ある限り発見者山野の遺族には(鉱山から)毎月米二俵といくばくかの金円を供与している。而(しこう)して、その子息は唯今該山(三井鉱山)で使役しているが実に結構な至りである。』  山野家は、字日ノ浜に現存し子孫も健在であり、この事を認識している。また、床の間には『山野千松』だという写真を掲げているが、この写真は肖像画を写真としたものであり、三井鉱山の事務所に存在していた油絵・肖像画の写しとも推測できる。 なお、孫兵衛についての資料は見当たらない。
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押野鉱山で自然の摂理を見る北海道恵山町  南部馬より一回り大きく、見事な毛並みの馬が一頭、後ろには二両のトロッコが連結し、レイルは港町から緩やかに登っている。一両には荷物が満載で、もう一両にはわずかな食料品と人の乗る広さが確保されている。馬夫は七曲や長坂では降りてもらうという。恐らく急坂であろう。到着したのは空気のひんやりした山中の新しい家が並ぶ一角で、ひときわ目立つ建物が「押野鉱山事務所」であった。上流のムサの沢付近の露天掘りで採取した鉱石は、碁盤の目に仕切られた標本箱に整理される。付近の「一番坑」へ向かうと、二人の鉱夫が坑道から鉱石満載のトロッコを押して出てきた。カンテラとアセチレン灯に灯がともされ、高さ五尺(1.5m)幅○尺(1.8m)の坑道には、三尺(90cm)毎に鳥居型の支保工があり、本坑側には疎水坑も掘られている。選鉱所は山縣(やまがた)鉱区寄りにあり、鉱石選別の樋に傾斜のついたスクリーンが取り付けられている。これは塊鉱と粉鉱を効率よく分離するためだ。精錬所は古武井川中流の中小屋精錬所が廃止され、旧山(ふるやま)と青盤(あおばん)に焼取釜が設置され、すべてのルートにトロッコの軌道が敷設されていた。これは、鉱夫の数600名、当時、「東洋一の硫黄山」と称された明治35年6月の古武井硫黄鉱山(山縣鉱山)と押野鉱山の情景である。元治元年(1864)頃発見された古武井川上流の硫黄鉱床は、日露戦争による特需、明治42年(1909)には精錬用薪材運搬のための、古武井川(青盤)--尻岸内川(荒砥)間に鉄索建設を経て、山間には3,000人を超す大集落が形成される。10kmを超える馬車鉄道、暗渠商店街、「小滝楼」と呼ばれた料亭、鉱山病院に3か所の精錬所も建設され、焼取釜90基、硫黄釜204個を設置した。しかしながら、大正6年(1917)にはメキシコ湾岸においてフラッシュ法による、大規模な硫黄採掘が進み、輸出に陰りが見え始める。その影響もあり、昭和28年、資本投入から約50年の歴史に終止符を打つ。冬の間、資料を詳しく分析し、5月初旬に現地入りした。、当時は鉱山事業の繁栄に伴い、周囲の森林は失われ、製錬煙のためか樹木や苔の類まで立ち枯れた現地も、衛星写真で見ると茂る樹木に、大規模な治山ダムがそびえている。閉山から70年近い山中で、はたして遺構に巡り会えるのだろうか。精錬所・獣・倒木・・・( ̄u ̄;)耐火煉瓦トップページへ