広島県大竹市小方町にある苦の坂峠のケーブルハット。 逓信省装荷線輪装置用ケーブルハットとは、昭和...

苦の坂峠のケーブルハット

苦の坂峠のケーブルハット 概要・歴史

広島県大竹市小方町にある苦の坂峠のケーブルハット。 逓信省装荷線輪装置用ケーブルハットとは、昭和...

苦の坂峠のケーブルハット 画像

苦の坂峠のケーブルハット(2020年11月)
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苦の坂峠のケーブルハット ストリートビュー・空中写真

苦の坂峠のケーブルハット 関連ブログ・参考リンク

https://wiki3.jp/kureiko/page/258
西国街道跡の一つ、苦の坂峠にあります。逓信省(ていしんしょう)とは明治時代に作られた通信や運輸を管轄する政府の省庁で、現在のNTT(旧電信電話株式会社)と郵便局を合わせたような事業を行っていました。日本に電話が初めて登場したのは明治23年の東京-横浜間で、通話料金もかなり高額であったため当初は一部の裕福層しか利用できませんでした。その後、昭和に入ると電話も庶民の手の届くものとなり電話機も急速に普及しました。昭和14年には東京から当時の満洲国の哈爾浜(ハルピン)まで約3000kmの電話網である「長距離市外電話」が敷設されました。この電話網は特に一貫した計画として進められていたわけではないようです。しかし、大正時代から徐々に主要都市間や対馬海峡を電話網で接続した結果、昭和14年に東京-奉天、昭和15年に東京-新京間で通話が可能となりました。この長距離市外電話の電話網には、50kmごとに通信電流が弱まるのを防ぐ『装荷用ケーブルハット』と呼ばれる中継所が設けられました。その1つがここ大竹市の苦の坂峠に残っています。昭和初期特有の石混じりの鉄筋コンクリートと鮫肌のような外壁に2つ穴が空いているのが特徴で、中にどのような機器が置かれていたのか不明ですがインフラ施設らしからぬコンパクトな造りです。この装荷用ケーブルハットは現在は全国でも数か所しか残っていない貴重な産業遺産です。現存する他所の装荷用ケーブルハットには入口に鉄扉が付いている物もあります。余談ですが、明治23年頃の電話は直接相手に繋がるのではなく交換手と呼ばれる電話局職員と繋がり、相手の番号を言って交換手が繋ぎ初めて通話するというものでした。大正12年の関東大震災の復旧で自動交換機が登場しましたが、日本の電話が完全に自動交換機に変わり交換手が不要となったのは戦後かなり経過した昭和54年のことでした。
https://yamap.com/activities/16879442/article
逓信省装荷線輪装置用ケーブルハット跡。昭和の始め頃の長距離市外電話網の中継所なんだとか。「〒」は逓信省の頭文字の「テ」なんですね❗️
http://yanai-jitabi.main.jp/sozai02.html
苦の坂垰を越えて下り始めたところに、戦前の送荷ケーブルハット跡。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-740454.html
この建造物を調べると昭和の初めのころに出来たもので長距離市外電話ケーブルの中継基地だったようです。装荷用ケーブルハットといいます。
http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2014/10/post-2c58.html
〒マーク郵便の集配施設と思ったが、昭和の初めに東京から続いた「長距離市外電話」ケーブルの中継基地だった。「装荷用(そうかよう)ケーブルハット」といい、全国でも数か所しか残っていないそうだ。〒マークは、逓信省(ていしんしょう)の「テ」からでき